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2015年3月1日日曜日

70年代リバイバル

ファッションの流行は、
周期的にどこかの時代のスタイルを再び蘇らせ、
進化させることにより、
らせん状に発展していきます。
リバイバルはそのほとんどが、
多くの人が忘れたころにやってきます。
2010年代に1970年代がリバイバルされるということは、
およそ40年ぶりということでしょうか。
多くの人がそのスタイルを忘却するのに必要な時間は、
十分にありました。

70年代の特徴はいくつかあります。
若者の普段着であったデニムを使ったアイテムの一般化、
作業着のモードへの昇華、
ヒッピーやボヘミアンスタイル、
そしてエスニックです。
そのどれもがいわゆる「中心」から外れた周縁、または辺境の存在。
社会的に認められていなかった、といってもそれは欧米での話ですが、
若者、
労働者、現在はロマと呼ばれるジプシー、
社会の規範へ反抗するヒッピー、
欧米以外の文化圏の人々などです。

ファッションは、その中心と周辺を入れ替えたかのように、
外側からの影響で内部が埋め尽くされたのでした。
それまで価値を認められていなかったもの、
切り捨てられていたものの価値が、一気に上がったのです。

そうなる前には、例えば1968年のパリでの五月革命のように、
学生運動が世界中に広がり、
新しい世代が新しい価値観を持ってあらわれてきたという事実がありました。
常に新しい流れを取り入れるファッションが、
このような社会的な流れに影響を受けるのは当然です。

また、1970年には日本の高田賢三がパリにショップをオープンし、
欧米以外の文化圏の影響を受けた、大胆な色遣い、柄と柄の組み合わせなど、
若く、しかも「欧米ではない」という価値観を示しました。
(注:この時代、東欧の文化も、
イギリス、フランスなど西ヨーロッパの国から見ると、
異国情緒のある文化でした。ボヘミアンスタイルなどは、東欧の影響を受けたスタイルです)

これら、「中心」以外の存在のパワーが中心を凌駕した結果生まれたのが
70年代のスタイルです。
スタイルの特徴としては、
ベルボトムやパンタロンなど、裾広がりのパンツ、
素材としてスエード、ヴェルヴェット、デニム、
細部の装飾としてフリンジ、フリル、
ロングスカート、
パッチワーク、
フリンジ、
刺繍、
ひもやマクラメ使い、
月の女神ダイアナ風サンダル、
などです。

2010年代、70年代がリバイバルされていますが、
もちろんこれは1970年代のものそのままではなく、
アップデートされています。
パンタロンのシルエット、
サボという原型、
スエードという素材はそのままに、
それぞれがかつてのそれより、
より手の込んだ、より洗練された、
若者ではなく大人にふさわしいものになっています。
ただ労働者のジーンズを着るのでも、
ただ東欧にいた女性たちがはいていた、
あのロングスカートを借りてきてはくのではなく、
それぞれの足りないところを補い、
モードと呼ぶのにふさわしい豪華な素材、
繊細な手仕事を施すことにより、
雰囲気は70年代のままに、
全くの別物に仕上がりました。

では、なぜ今70年代なのでしょうか。
若者、そして異質な文化という性質を、
なぜ今の時代、再現しなければならないのでしょうか。
それは今の時代の流れの終わりが見え始めたからではないかと、
私は考えます。

文化の黄昏の時代、
発展が行き止まり、これ以上の先が見えなくなったとき、
私たちに必要なのは「若さ」です。
それは年齢の若さではなく、
精神の若さ。
新しいことにチャレンジし、
どんな変化にも対応できるしなやかさ、
そして何よりも未来を夢見る力、
そんな「若さ」の持つ力を、
私たちは再び欲します。

そして異質な文化を取り入れるのは、
あたかも輸血するかのように、
違う血を入れることによって、
自分たちの文化を若返らせようとする、
無意識のあらわれです。

では、2010年代を生きる大人の私たちは、
この70年代リバイバルをどのように取り入れたらいいのでしょうか。
まずは、大人にふさわしいものを選ぶこと。
二十歳前後の子たちと同じような、
単純なそのものの70年代スタイルはあえて避け、
生地なり、細部なりがアップデートされたものを選びます。
古着屋で手に入れたような、本物の70年代のものよりも、
今にふさわしいスタイルに改善され、
そこはかとなく70年代を感じるぐらいのものにおさえたほうが、
現在持っているワードローブに取り入れやすいですし、
何より違和感なく着ることができると思います。

そして最も大事なのは、精神的な若さです。
かたくなで、変化を嫌い、
好奇心のかけらもなく、
何事にもチャレンジしない態度は、
決して若いとは言えません。
新しいものを取り入れ、
知らないことを知ろうとし、
上からものを言うのではなく、
何かを学ぼうとする姿勢があってこそ、
70年代スタイルは生きてきます。

さらに、異質な文化への好奇心と理解。
異質なものを排除する心は、
70年代の若者たちが最も嫌ったものでしょう。
もし彼らが「日本」という異質な文化を持つ国から来たものを排除したならば、
海を渡った日本のケンゾーはパリで成功しなかったはず。
パリが異質な文化を背景に持つケンゾーを受け入れたように、
ファッションを愛する人々は、
異質な文化にみずから近付き、
理解し、受け入れなければなりません。
それは、ファッションの1つのエレメントです。

ファッションはいつの時代も、
異質な文化を取り入れて発展してきました。
それは昔も今も、そしてこれからも変わりありません。
70年代スタイルとは、いわばそのシンボル的なスタイルです。

おしゃれであるとは、
精神が若いこと、
そして、異なるものや人への好奇心を持ち続けることです。
その2つがあるならば、
70年代スタイルを着こなすのは、
いとも簡単であるはずに違いありません。




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2015年2月23日月曜日

お知らせ

今週のブログアップはお休みいたします。
次回は3月1日を予定しております。

また、3月からはブログアップを
毎月1日、15日の、月2回に変更する予定です。

以上、よろしくお願いいたします。

2015年2月16日月曜日

「ハレ」の日の衣装(例えばデートの場合)

日常のことを「ケ」、
そしてはれのの日のことを「ハレ」と言います。
現代は、この「ハレ」と「ケ」のうち、
「ハレ」の日が少なくなり、
どこまでも続くような、変わらない日常が1年の多くを占めるようになりました。
それでもまだ、「デート」というものは、この数少ない「ハレ」の日であると思います。
今回は、「デート」を例にとって、
どんなふうにその日の服装を組み立てていったらいいか、
考えてみることにします。

考慮する必要があるのは以下の点です。
季節、
場所、
時間、
かかわる相手、
目的です。
考え方としては、自分が主人公の映画のワンシーンで、
自分が監督で、自分が衣装デザイナーです。
デートのシーンが絵になるものになるように心がけます。

まずは、「デート」という1つのシーンがどのような季節の、どこであるのかを考えます。
例えば季節が同じ早春だとしても、
それが都会なのか、海なのか、山なのか、田園なのか、地方なのかによって、
着るものは変わります。
なぜなら光の加減も、背景となる風景も違うからです。
どちらかというと、都会はその点で許容範囲が広いです。
特にそこが観光地であった場合、どこでも同じ服装の観光客は許されます。
しかし、幾ら都会の許容範囲が広いとは言え、
高級ホテルのラウンジで映えるスタイルと、
湘南の海辺のレストランに似合うスタイルは違います。
都会であったら、ガラスとコンクリート、凝った照明ですが、
海辺であったら、まずは海と輝く真昼の太陽、または夕陽や、
灯台に照らされる海などになるでしょう。

また、デートなのですから、季節感無視のスタイルもおかしいです。
お気に入りの映画やテレビのドラマを思い出してください。
主人公は、季節に合った服装をしてあらわれます。
暑さ寒さに対する対応が優先の日常とは違います。

次に時間です。
朝、昼、夕、夜などの時間帯のうちどこなのか、
または半日なのか、1日なのかを考えます。
午前中、レストランでブランチをとるのと、
夜のディナーを楽しむのとでは、装いは変わってきます。
午前中だったらよりリラックスした感じで、
夜だったら、少し緊張感のある、よりおしゃれした感じがふさわしいです。
また、1日にかけてのものであったら、
1日のうち、どのように衣装を変えていくか、考える必要も出てきます。

季節、場所、時間がわかったら、
次は相手との関係について考えます。
初めてデートする相手と、1年付き合った相手と、
結婚した相手では、選ぶスタイルは違ったものになるでしょう。
初めてデートする相手だとしたら、それなりにきちんとした、
かつ自分らしさが伝わるスタイルで、
付き合って何年もたつ相手なら、よりリラックスした、カジュアルな雰囲気になるでしょう。
けれども、まだここで決定することはできません。

最後に最も重要なのはその日のデートの目的、そして意図するところです。
初めてのデートなら、自分を知ってもらうためでしょうし、
誕生日のデートなら、どちらかをお祝いするためです。
自分を知ってもらうために、その方法としてカジュアルな普段着のスタイルを見てもらうのか、
それとも、かしこまった感じのよそ行きスタイルを見てもらうのか、
それは自分でどちらを意図するかによります。
また、誕生日のお祝いを三ツ星レストランでするのか、
ドライブをしてから海辺のレストランでするのか、
雪深いゲレンデ近くのホテルのレストランでするのかによっても変わってきます。

さて、これら考慮すべき点を出そろったら、
次は自分の持っているワードローブで、どうやってそれを表現するかの問題です。
現在、多くの人のワードローブは、
普段着、通勤着、遊びへ行くときのスタイルで構成されています。
「ハレ」の場面が少ない生活をしていると、
そういった日のためのワードローブは一切持っていないということも多いです。

しかし、人間の歴史のどの時代、どの地域においても、
「ハレ」の日のための衣装というものは存在しています。
私たちが「貧しい」と呼ぶその地域でさえ、
私たちの日常着よりはずっと豪華なお祭り用の衣装一式を持っています。
何か特別の日のために「着飾る」という行為は、
人間の長い歴史の中で、たった一度も忘れられたことはありません。
それは根源的な私たちの無視できない欲動です。
それは抑圧されればされるほど、反動となってあらわれます。
たくさんの服を所有したり、
買っては捨ててを繰り返すのもその1つのあらわれです。

「ハレ」の日には「ハレ」の日にふさわしい服装をするのが人間の文化です。
どんなに貧しいと呼ばれる地域や国々でも、それはできるのです。
確かに現在の生活の中では、大きなお祭りも夜通し祝い続けるような結婚式もありません。
であるからこそ、自分の生活の中に「ハレ」の日を作らないと、
人間としての心が枯れていきます。

「ハレ」の日のための衣装が何もない場合、
自分なりに工夫して、何かを付け加える必要が出てくるでしょう。
それがダイヤモンドのピアスなのか、
ラインストーンのネックレスなのか、
シルクサテンの花柄のドレスなのか、
黒いスエードのハイヒールなのか、
それはその人のライフスタイルや年代にもよります。
学生であれば学生なりにできる範囲での、
また年齢を重ねたのであれば、それにふさわしい選択というものがあります。

そして、洋服ではありませんが、
日本人であれば、それが着物だということもあるでしょう。
着物を着るだけで、それは十分に「ハレ」の日です。

ポイントは非日常です。
普段は着ないものです。
「ハレ」の日のためだけに用意された、
日常を超える衣装。
毎日のためのものではなく、
1年にたった数日の、特別な日のためのもの。
そんなものがあるだけで、
私たちは退屈な日常から抜け出すことができ、
着飾りたいという人間の根源的欲求が満たされます。

今回は例えばデートの場合でしたけれども、
何もデートに限ったことではありません。
音楽会へ行くとき、
予約をしてディナーをレストランでいただくとき、
または自分が主催して誕生日パーティーを開くとき、
そんな、普段着ではないときのためだけの衣装があることで、
私たちのモノクロの日常が、いきなりカラーに変わるのです。

観客でいることはやめて、
主人公になりましょう。
誰かが主人公の映画もドラマも雑誌も適当にしておいて、
自分が主役の物語を紡ぎましょう。
映画のワンシーンのように、
シーンをつなぎ合わせれば、
自分だけの物語ができ上がります。
主人公の「ハレ」の日の場面のために、
衣装を用意してあげましょう。
すべてこの世は舞台ですから。

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2015年2月9日月曜日

服に飽きるということ

一般的に、柄物の服や、
デザイン性の高い服は飽きやすいと言われています。
また、そんな服ではなくても、
あるとき、その服はもう飽きたと感じることがある人は、
多いと思います。
その「あるときは」、必ずしも決まった年数であるとか、
決まった回数を着たからではなく、
ふいにやってきます。
何の前触れもなく。

飽きてしまった服をよみがえらせるためには、
いくつかの方法があります。
まずは、少しその服を着るのをやめて、寝かせておくという方法。
余りにもしょっちゅうある服ばかり着続けると、
確かに飽きがやってきます。
そういうときは、一定期間、その服を着るのをあえてやめます。
そして、忘れたころに取り出してみると、
また新たな気持ちで着ることができます。

次に、その飽きた服をいつもの組み合わせではなく、
違うものと組み合わせて着るという方法。
知らず知らずのうちに、同じ服を同じ組み合わせで着ているものです。
それはその組み合わせが最も自分にしっくりくるからでもあり、
着やすいからでもあるでしょう。
その場合、服に飽きたというよりは、
コーディネイトに飽きたということなので、
そのコーディネイトを変えてみると、
それだけで気分は変わります。

また、流行っているものなどの場合は、見慣れたことが原因で飽きがきます。
私たちは、自分の服だけではなく、
同じ服、靴、バッグを持っている人を見るだけで見飽きていきます。
余りに流行したものが、すぐに嫌になるのはそのためです。
私たちは、ある一定量、目に同じ情報が入ってくると、
それ以上、受け付けなくなる性質を持っています。
ですから、街に出ればすぐ目に入るような、
はやりのものは極力買わないということも、
飽きないための方法です。

しかし、その「飽きた」ということの原因を深く見ていくと、
それは服のせいではありません。
私たちが本当に飽きているのは、自分たちの単調な生活です。

決まり切った日常で、
ハレとケの区別もなく、
土から離れ自然の変化も感じにくい生活を長く続けると、
私たちは飽きてきます。
子どものころのようにたくさんの行事もなく、
毎日は同じことの繰り返し。
自然のリズムを無視し、
エネルギーの動きが止まったとき、
私たちは何とかしてそれを変えようと、
無意識の領域から突き動かされます。

何も起こらない、変化に乏しい日常の中で、
服を買うという行為は、手軽にエネルギーを動かす方法です。
新しい服を買ってみる、
着てみるという行為は、それだけで小さな変化です。

変化こそが生きることであるにもかかわらず、
その動きを封じ、ゆがみのない毎日の中で、
服を買うという行為が、その代替品として発見されました。

けれども、新しく服を買ったところで、
本当の変化にはなりません。
動いたエネルギーも小さすぎます。

映画を見る、音楽を聞く、本を読むなど、
ほとんどの娯楽が受け身の中で、
服を買うという行為は、少しは自発的な行為ですが、
それだけではやはり足りません。
自分から自分のエネルギーを動かし、
変化を作っていかない限り、
私たちは、ほんの些細なことで、服に飽き続けます。

自分の持っているエネルギーを何かを創造するために使っている人たちは、
飽かずに同じ服を着続けます。
種をまき、球根を植え続ける園芸家も、
まだ見たことのないものを描き続ける画家も、
一瞬の動きの中に永遠を見出すダンサーも、
食材の組み合わせの完璧な味のバランスを探すシェフも、
服をとっかえひっかえ買う必要はありません。
なぜなら彼らは自分のクリエイティビティを発揮し、
服に飽きている暇などないからです。

自分の持っているエネルギーを十分に動かし、
変化のある毎日を送ったならば、
服の飽きにいちいち心を煩わされることはありません。

服に飽きて、
新しい服をまた買って、
そしてそれにまた飽きて、
そんな服ばかりがふえていくのが心底嫌ならば、
自分で自分に対して変化を起こす必要があります。
与えられたスケジュールをこなすだけの、
動きのない日々は人を腐らせます。
変わらないということだけがクリエイティブで、
生きている証です。

それは誰かが与えてくれるものではありません。
受け身の娯楽におぼれているだけでは、
そこからは抜け出せません。
着ている服を忘れるくらい没頭できる何かを、
私たちは探さなくてはなりません。

それができた暁に、
私たちは、カシミアのセーターの肘が破れるほど着続けた自分に気づくでしょう。
ダメージ・ジーンズを買う必要もなく、
はいているうちに、自然とジーンズは擦り切れていきます。
そして、日常から「飽き」はなくなり、
渇望感は消えていきます。

服が飽きたと感じたなら、
それは本当にその服が飽きたのか、
自分が自分に飽きているのか、
自問してみてください。
そのどちらが本当の答えなのかは、
自分のハートに聞けばわかります。
そして、どうすればいいのかも、ハートは知っています。
それに従えばいいだけです。
それは案外、簡単です。

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2015年2月2日月曜日

黒以外の靴を選ぶ

黒いパンプス、
黒いバレエ・シューズ、
黒いローファー、
黒いサンダル、
黒いレースアップ・シューズ、
黒いブーツがひとそろえあれば、
それで1年中過ごせますし、
おかしく見えることはありません。
それに黒いバッグを組み合わせれば、
申し分ありません。
誰も文句は言えません。

しかし、おしゃれ上級者の人たちを観察していると、
このバランスを崩し、
特に靴の色に関して、わざとこのオーソドックスな黒を外しているということがわかります。
彼女たちは、明らかに、しかも確信を持って、
あえて黒い靴を選びません。
黒い靴に黒いバッグをあわせるという安全策はとらないで、
あえて冒険して、黒以外の靴を選びます。

はっきり言って、それが本当に合っているかどうかは疑問です。
そこには特にルールがないからです。
「絶対」はありません。
しかし、徹底的に黒を外してくるその態度はまさに、
おしゃれなのです。

では、彼女たちはなぜあえて、不調和ぎりぎりの色の靴をそこに持ってくるのか。
また、色ばかりではなく、例えばスーツにスニーカーや、
ストラップのついたサンダルをあわせたり、サボをあわせたりするのか。

その理由の1つは、ほかの人と同じスタイルを避けるため。
ここで黒い靴、黒いバッグではいかにも平凡です。
何の工夫もありません。
誰でもが考え付く、かつできるスタイル。
その凡庸性から逃れるために、黒い靴を避けます。

そしてもう1つの理由は、あえて完璧であることを避けるためです。
完璧とは、完成ということ。
進化の終わりということ。
それ以上がないということです。
人はなぜか、発展性のないものに惹かれません。
惹かれないだけではなく、退屈さえ覚えます。
当然のことながら、興味の対象からは外されます。

未来が楽しみな子どもや若者は、それだけで柔らかい存在です。
若木のようなしなやかさは、それだけで魅力です。
はかることができない伸びしろが、それがどうなるかわからないからこそ、
魅力的なのです。
一方、年を重ね、
固い殻に閉じこもり、柔らかさを失った大人に魅力を感じるのは難しくなります。
反応の遅さ、
感受性の鈍さ、
決まり切った受け答え、
それが固定してしまった人は、自然と他人を遠ざけます。
そういった大人が必ずはいている黒い靴は、
あたかもその人の句読点のように、
固い殻の入口をしっかり閉じます。

どんなに完璧な格好をしたところで、
魅力がないのであれば、意味がないのです。
私たちがおしゃれをすることで目指したいのは完璧であることではなく、
魅力があることなのです。
魅力とは、見る人の心を動かす力です。
完璧だけれども、心が一ミリも動かないスタイルをしたところで、
ちっとも面白くありません。

黒以外の色の靴は、
見る人の心を動かします。
どう解釈していいのか、迷います。
けれども、それを見ずにはいられません。
何がいいのかわからなくても、
目にはその印象が焼きつきます。
心が動き、そこにドラマが生まれます。
それが「赤い靴」であるならば、映画のテーマにさえなり得ます。

完璧だけれども、退屈なスタイルにはまっているのなら、
思い切って、黒以外の色の靴を選ぶことをお勧めします。
茶色や白など、ベーシックな色の場合はそれほど難しくはありませんが、
赤、グリーン、黄色など、
靴としてはあまり選ばれないような色になればなるほど、
難易度は上がっていきます。
まずはスニーカーやバレエ・シューズで試してみましょう。
夏のビーチ・サンダルでも構いません。
靴屋の全身が映る姿見の前で、
まずは黒い靴をはいてみて、
そのあとに、ふだんは絶対に選ばないような、
けれども、実は大好きな色の靴をあわせてみてください。
どの色の靴を選べばいいかわからない場合は、
いつもさし色として使う色を持ってくるのが一番簡単な方法です。
まずはそこから始めましょう。

魅力があるところには会話が生まれます。
そして、関係は発展します。
固い殻に閉じこもっていたのでは、
誰も声をかけません。
それを変えることができるのは自分だけです。
変えるつもりがないのなら、
それは永遠にそのままです。
靴の色を変えるというその意思表示は、
自分を変えるための第一歩になるでしょう。
いつだって物語は、
主人公が変わると決意したところから始まります。
新しい物語を始めましょう。

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2015年1月26日月曜日

自分で作るセットアップ

自分の持っているワードローブのアイテムを使って、
素敵なコーディネイトができないというお悩みを持っていらっしゃる方が
たくさんいらっしゃいます。
こんなにたくさんあるのに、
雑誌だって、いつも見ているのに、
高いお洋服を買ったのに、
いざ、組み合わせようとすると、
どうしたらいいか全くわからない。

どうしたらいいか全くわからないだけでなく、
その原因もわからない。
原因がわからないので、その解決方法もわからない。
苦肉の策として選ぶのは、
そして、頭の中でひらめくのは、
新しい服を買おうというアイデア。

しかし、新しいその1枚が足されたからといって、
家に帰って、コーディネイトできないという現実が変わるわけでもなく、
そのまま、いつものお気に入りの組み合わせで、
特別な外出の日は出ていく、
その繰り返し。

お気に入りの組み合わせはとても気に入っているので、
そればかり着ている間に、
どうにもこうにも組み合わせることができないスカートやら、ブラウスやらは、
クローゼットの脇のほうへ寄せていく。
けれども、気づいたら、
脇へ寄せたつもりの、
そのどうしたいいかわからないスカートやら、ジャケットやら、パンツやらが、
クローゼットのハンガーラックの真ん中のラインを過ぎている。
つまり、半分以上は、どうしたらいいかわからない、
ドレスやら、コートやら、セーターになっている。

あんまり着ていないから、傷んでないし、捨てるに捨てられないし、
誰かがもらってくれそうにもないし、
リサイクルショップへ持っていっても、100円とか、200円とか、言われちゃうし、
そうだわ、見なかったことにしようとひそかに決意し、
クローゼットから取りだして、
押入れの奥へ押し込んだところで、
持っているということには変わりなく、
そして何より、
持っているアイテムでコーディネイトできないという問題は全く手つかずのまま。

ではどうしたらいいか。

ほとんどの人がコーディネイトできないその理由は何かというと、
色の問題です。
正直な話、色音痴の人が多いです。
これとこれは合わないと言っても、
この青と、その青がどう違うのか、識別できない人が多いのです。
もっとも簡単に識別できる黒と白を除いては、
その見え方についての感受性を育ててこなかった結果、
色の識別ができなくなったのだろうと推測できます。
服の場合、これらの色が生地のテクスチャーの上にのるわけですから、
もっと複雑になります。
光の反射の具合によって、同じ黒の見え方が違ってきますが、
それも、よくわからないと言う人が多いです。

服を買った期間が20年間、30年間ではなく、
例えば、10年以内のものばかりだとしたら、
それほどシルエットが時代遅れというものはありません。
確かに、今、80年代に買ったコートをそのまま着たら、
それは「変なコーディネイト」になるかもしれませんが、
そういう人はあまりいません。

もちろん、シルエットは流行を見る上で重要ですが、
ベーシックなものをメインに選んでいる限り、
「そのシルエットの組み合わせがおかしい」という失敗パターンは、
少数です。
それより何よりも、失敗しているのが色なのです。

解決方法は、自分の着るメインの色を決めることです。
そして、決めるだけではなく、
その選んだ1色で全身がコーディネイトできるように、
つまり、ネイビーならネイビー、グレーならグレーの1色でコーディネイトが完成できるように、
アイテムをそろえることです。
ネイビーのパンツ、スカート、ジャケット、ニット、シャツ、コートまで、
ひとそろえ持っていれば、それを土台として、ぶれない色のコーディネイトができ上がります。

例をあげます。
ネイビーを自分の基本の色に選んだとします。
その上で、
ジーンズ、ジャケット、Tシャツ、帽子、スカーフ、スニーカー、スカートをそろえます。
中のTシャツを白にかえて、白いバッグを持てば、それだけでさわやかなコーディネイトになります。
また、そこに1点、赤い腕時計でも投入すれば、
トリコロールのコーディネイトになります。

グレーでも同じことができます。
グレーの場合、
白から黒までのグラデーションのあいだの色合いのアイテムがいろいろ売っていますので、
その色の幅までOKとして、
コート、パンツ、ニット、ストール、バッグ、ブーツをそろえます。
グレーで全部そろえると、それは都会的なコーディネイトです。
コンクリートとガラスの建築群によく似合います。
そして、例えばその中のニットを華やかな黄色やベビーピンクに変えれば、
都会的な冷たい感じを和らげることもできますし、
春の気分を先取りすることもできます。

自分のワードローブの中に、
自分の選んだ色の1色で上から下まですべてコーディネイトできるセットを持っていれば、
色の組み合わせで迷ったり、失敗したりすることはありません。
ただし、ベージュやカーキなど、売っているものの色合いが微妙に違うものは注意が必要です。
同じベージュでそろえるのはかなり難しいです。
けれども、できないことはありません。

これは、自分でセットアップを作るという考え方です。
売っているセットアップは、せいぜいジャケットとスカート、
または半袖ニットと長袖ニットの組み合わせ。
それだけではなく、上から下まで、靴、バッグ、小物まで含めて、
ひとそろえとしてセットアップ、つまり、組み立てておけば、
微細な色の違いが識別できなくても、
色で失敗することはなくなります。

本当は、それぞれが色についての鋭い感性を養えばいいと思います。
絵画を見たり、植物を観察したり、
生地屋へ行って、素材をひとつひとつ見て回ったり、
その一連の行為が色に対する感性を養います。
しかしそうはいっても、感性を養うには時間がかかりますし、
明日も服を着なければなりません。

色について、一番怠惰になりたいならば、
いつも黒だけ選べばいい。
しかし、それではいつまでたっても、色を識別する眼は育ちません。
想像してみてください。
江戸時代、女性の着物がすべて真っ黒だったら、それはどんな景色でしょうか?
豊富な色彩は豊かさの1つの印です。

まずはできるところから、
できる方法で。
1色を決めて、それで自分なりのセットアップを作る方法は、
誰もができますし、
お金もかかりません。
それは、とりあえずのところ、
コーディネイトでの色の失敗を防ぎ、
服選びの時間を短縮し、
無駄な、着もしない服を減らすことに貢献します。
そして、余裕ができたなら、
ぜひとも新しい色にチャレンジしてみましょう。
そのときはきっと、
グレーが決して1色ではないということに気づくでしょう。
そして、あのブルーとこのブルーがどう違うか、
識別ができるようになっているでしょう。


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2015年1月19日月曜日

ファッションにおける客観的な視点

ファッションに限らずとも、客観的な視点を身につけることは重要です。
すべての自分の表現、言葉、作品において、
出来得る限り客観的でいれば、
問題は最小限に抑えられます。

ファッションにおいて、多くの人にとっての客観的視点とは、
鏡の中の自分の像でしょう。
小さいものでは手鏡の、
化粧室で上半身の、
自宅やショップで全身が映る鏡、
そしてイレギュラーなものとして、
街で通り過ぎざまに映るウィンドウ。
そのどれもに自分の姿を見ることができます。
しかし、客観的な視点とは、それでは足りないものです。

必要なのはもっと遠く、もしくは高くから見る視点。
たとえて言うならば、芝居の演出家や、映画の監督の視点です。
芝居の場合なら、劇場の一番後ろの席から、
映画であるなら、映画館のスクリーンが全体を見渡せる席から見ることで、
彼らは舞台上やスクリーンの中の役者とは一段違うところから、
全体を見ます。
そして、それができなければ、演出家や映画監督は務まりません。

その視点は、
観客の視点よりも、より遠く、高いものです。
観客と言えども、やはり近すぎます。
近ければ近いほど、全体を見ることはできず、
その結果、導き出される意見はばらばらです。

もし私たちが、自分の服装について、
ごく近くの人たちに意見を聞いたなら、
すべて違うことを言われるでしょう。
ある人からよく見えるところは、違う人にとってはよく見えないかもしれないし、
それぞれが、細部のみを見ているかもしれません。
他人であるからといって、それが客観的な視点とは限らないのです。

分かりやすいのは映画監督の視点なので、
映画を例にして説明します。
映画には、全体のテーマ、そしてストーリーがまずあります。
それを表現するためにキャストが決まり、各シーンのセットやロケ地が決定されます。
主人公は顔、上半身、全身、頭上から、足元から、
俯瞰的に、群衆の一部としてなど、
さまざまな視点から撮影されます。
監督が留意しなければならないのは、
背景、照明、シーンの登場人物、季節、時間、場所です。
それをすべて考慮した上で、登場人物の衣装もメイクも決まります。
同時に、その登場人物を引きで見るのか、寄って見るのかによっても、
衣装、メイク、髪形が変わってくるでしょう。
テーマを表現するためには、それらすべてが調和していなければなりません。
どこかひとつ飛びぬけても、どこかひとつ抜けていてもだめです。

これと同じことが、ファッションにおける客観的な視点にも要求されます。
いわゆる「痛い」スタイルとは、
この何かが抜け落ちている視点の持ち主であることが露呈した結果です。
その人は、何かについて全く見ることができない人物であるということです。
これはよく言われるTPOでも足りません。
見るべきものは、Time、 Place、 Occasionでは足りません。
なぜならそこには最も大切な意図が抜けています。

客観的な視点は、自分がどう見せたいかという意図を表現するためにこそ、
必要なものです。
映画だったらテーマです。
この場所、この時間、このメンバー、この照明、
このお店、この季節、
この劇場で、
目の前にある1杯のコーヒーを前にして、
何を最も意図するのか。
恋愛映画なのか、ファンタジーなのかによっても違うでしょう。
一番重要なのは、何を一番表現したいかです。
それがもし、「おしゃれでモードな好きな私」だったら、
適度に流行を取り入れた、モードの服を選べばいいし、
「流行には左右されない、オーセンティックな私」だったら、
余り目立たないけれど、上質な本物だけを身につけたらいい。
逆に、ライブハウスで新人バンドのライブを見に行く、
「新しい音楽を楽しむ好奇心に満ちたおしゃれな私」だったら、
ダメージ・ジーンズにスタッズのついたブーツでもはけばいいのです。

映画監督のような客観的な視点、
そこに込めた意図。
この2つがあれば、
誰が何と思おうと、気にすることはありません。
観客はすべて違う意見を持ちます。
そしてこの人生の物語の主人公は自分です。

どんなに気をつけても、
すべての人を満足させるのは不可能です。
受け取った相手がどう思うか、感じるか、コントロールすることはできません。
相手は不満に思うかもしれないし、不謹慎に感じるかもしれない。
しかし、それはこちらの手から離れたところの問題です。
ファッションの表現は自由です。
それで誰かが傷つくことは、ほとんどありません。
(もちろん宗教的な理由でルールがある国はあります。それは守らなくてはなりません)

主人公には、そのシーンで一番映えるような衣装を着せてあげましょう。
映画監督の視点で、シーンをチェックしましょう。
誰かが何か言ったところで、
それを気にする必要も、ましてや反論する必要もありません。
この世界でその視点を提供できるのは、
すべての自分の行動を把握している、
神様以外には、
主人公である自分自身だけですから。

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