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2015年8月2日日曜日

スタイリングの新しい流れ(トランス、ミックス、レス、フリー)

一昔前のスタイリングの教科書を見てみると、
例えば、エレガンス、スポーティなどというように、
スタイル別に区分けされ、名前がつけられています。
それらのスタイルの境目はかなり厳重で、それらが混じり合ったり、
無視されることはありません。
スタイリングというものは、この区分けされた区分内のルールを守ることであり、
その中での完成を目指すものでした。

男女の境目も厳然と区別され、
それを超える人たちは、エキセントリック、すなわち中心にいない人や、
アバンギャルド、前衛の人、または単なる変人でした。

しかし、ここ数年のファッションの歴史の流れは、
この区分けされた境目を超えたり、
混ぜたりすることに関心を持つようになりました。
フェミニンにはマスキュリンを、
エレガンスにはスポーティをというように、
区分けされたスタイルで100パーセント完成することなく、
何か違う要素をミックスさせるスタイリングがおしゃれであると、
認識されるようになったのです。
その流れは今も続いていて、
そしてさらに進化しています。

実際のところ、男と女の境目は厳然としたものではありません。
特に女性は男性のスタイルを取り入れることに積極的で、
それはココ・シャネルが提案したボーイッシュなルックスや、
イヴ・サンローランのタキシード・スーツなど、
年代が進むごとに、男性が着るべきスタイルを積極的に取り入れてきました。

そのほかにも、
スポーツ・ウエアの日常着化、
エスニックやトライブと呼ばれる、
西洋とは異なった文化圏の装飾要素の取り入れ、
隠されるべきものであったランジェリーのアウター化など、
ファッションが進化するとともに、
今まであった境目を越境することに、
有能なデザイナーたちは腐心してきました。

その結果、当然のことながら、おしゃれに見えるスタイリングも変わってきました。

洋服のアイテムそのものの変化には限度があります。
何年たっても、スカートはスカートであり、
ジャケットはジャケットです。
シルエットの変化があるとはいっても、
それはタイトからビッグへ、ビッグからタイトへの繰り返しです。
いつでも新しいものを志向するファッションは、
その新しさをスタイリングに求めるようになりました。
それが現在です。

ポイントは、とにかく超えていくこと。
ジェンダーを超え、
民族を超え、
日常と非日常の境目を超え、
着られるものなら何でも取り入れ、
全体のスタイリングを刷新していく。

超えていくことは同時に、そこから自由になること。
男性はこうあるべきというスタイルから自由になり、
女性はこうあるべきであるというスタイルから自由になる。
スポーツウエアはスポーツのときだけしか着ないというルールから自由になり、
下着は見せてはいけないというルールを破る。

どんな文化圏に生まれようとも、
どこか遠い国の、見たことも、会ったこともない部族の衣装が好きならば、
それを取り入れ、
スカートの下は脚が出るというルールを無視して、
パンツをはき、
ドレスにウェリントン・フレームのメガネをあわせる。

図書館で見つけた、古臭いスタイリングのルールの本の指導を無視し、
境目を超え、ごちゃまぜにして、自由になる。
その組み合わせが、今まで見たことがないものになったなら、
それがおしゃれに見える。
現在、ファッションの進化はここまでやってきました。

これを普通の人がふだんのスタイリングに取り入れるにはどうしたらいいでしょうか。
まずは今まで、それとそれは合わせないと言われていたものをあえて組み合わせてみること。
見慣れた、その組み合わせから離れること、です。

シルクのドレスにスウェット地のパーカー、
パジャマのようなシャツにタイトスカート、
レースのキャミソールにランニング用のトレーニング・パンツ。
ロングドレスにスニーカーとウェリントン・フレームのメガネ。
真冬にノースリーブニットと肘まであるロングの手袋などなど。
いきなり、唐突に組み合わせられ、
今までのルールから遠ければ遠いほど、
それはおしゃれに見えます。

これらアイテムの組み合わせのほかにも、
例えば、素材とアイテムの意外な組み合わせというのも、
今のトレンドの1つです。
レースのトレンチコートはその代表例。
同様に、レースのスウェットシャツ、
豪華な刺繍やスワロフスキーのクリスタルが縫いつけられたジーンズ、
トートバッグやスニーカーにスパングルなど、
それまでその素材でそのアイテムは作らなかったというものを取り入れるのも、
今の気分を表現するのに最適です。

今の時代が私たちに要求しているのは、
スタイリングでどれだけ冒険できるか、
どれだけ境目を超えられるかということ。
男女の境も、
国の境も、
年齢の境も、
そんなものはしょせん幻。
今、それが着られるということ、
着たいということ、その気持ちがあるならば、
それだけを頼りに、アクロバティックにアイテムを横断的に組み合わせ、
その中でバランスをとってみる、
おしゃれに見えるポイントを見つけてみる。
創意工夫のあらわれこそが、おしゃれですから、
今はまさにその腕が問われるところ。
何も考えてこなかった、
やってこなかったのだったら、
この新しいスタイリングをものにすることはできません。

考えてみる、
試してみる、
実行してみる、
変更してみる、
改良してみる。
新しいスタイリングはこの繰り返しで習得できます。

やるかやらないかは、
もちろん個人の自由です。
けれども、少しでもおしゃれになりたいのなら、
そして、停滞を拒み、進化し続けるほうを選ぶのなら、
新しいスタイリングにチャレンジするといいでしょう。
簡単ではありません。
けれども、やったらやったなりに、
それは誰かの心に届くでしょう。


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★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。

2015年7月15日水曜日

ワードローブのアップデート

ある日、突然、持っているワードローブを見て、
着るものが何もない、
すべてだめになったと感じる日がやってきます。
それはまさに、ワードローブをアップデートすべきタイミングです。
今まで正常に、過不足なく動いていたプログラムはもはや古くなり、
新しいハードに対応できません。

ワードローブのアップデートが必要になるときとはどんなときでしょうか。
それはソフトではなく、ハードウエアやその周辺機器が変わったとき。
体型が変わった、
顔が変わった、
肌の質感が変わった、
引っ越しして環境が変わった、
仕事が変わった、
付き合う人が変わった、
流行が変わった、
そして最後に、気分が変わったなど。

ソフト、つまりワードローブは古すぎて、
あたらしいハードに対応していないため、
もはや機能しません。
何を着ても、心を動かすことができない。
何を着ても、足が一歩踏み出さない。
電源が抜けているのかと思ってはみるけれども、
どうやらそうではないらしい。
エネルギー切れとも違う、
この違和感。

残念ながらそんなときは、どんなに努力しても、
古いワードローブでは、ハートもボディも動きません。
ぐずぐずしていて、
面倒ぐさがっていては、
ワードローブをアップデートしないでいたら、
のろのろ動くハートとボディではどこへも行けません。

さて、パソコンのソフトはありがたいことに、
向こうからお知らせがやってきて、
クリックすればアップデートが完了します。
しかし、ワードローブのアップデートはそうはいきません。
では、どうすればよいのでしょうか。

まずハードの変化の点検です。
体型が変わったのなら、それを潔く認めること。
何度ながめても、昔の服はもう入りません。
肌の色が変わってしまったこと、
髪をいつも染めなくてはならなくなったこと、
年齢による変化を認めるためには、
より客観的に自分を見つめ、現実的な対応が必要です。
サイズが合わないのなら、合うサイズのものにかえる、
好きな色が気に入らなくなったら、違う色のものを選ぶ、
若いときと同じような露出度の高い服はやめるなど、
対応方法はいろいろ考えられます。
自分を客観視できれば、それは可能です。

次に環境の変化です。
仕事が変わった、住む場所が変わったら、
当然のことながら、以前の服は「その場にふさわしく」なくなるでしょう。
シーンとして考えて選んだものですから、
背景が変わるのなら、違う服装になるのは自然なこと。
新しい環境になれるためにも、
もはやそのシーンに不似合いなワードローブを処分することも必要となってきます。
農場にスーツはいらないし、
都会にビーチサンダルで出勤はできません。

その次は流行の変化です。
どんなに抵抗しようとも、どんなに無視しようとも、
流行は変化していきます。
私たちはずっと同じ時代に生きているわけではありません。
ある程度、流行を取り入れなければ、その時代の雰囲気は体現できないので、
おしゃれには見えません。
自分が何だか流行遅れに見えるそんなときは、

最新のファッションの情報を多く取り入れ、
自分の目を完全にリフレッシュしてしまえば、次に何を選んだらよいかわかるようになります。
その場合、メディアなどの写真による二次情報と、
実際の店舗へ行ってみるという一次情報、両方にふれることが必要です。
新しい時代の空気を実感することができたら、それを自分が取り入れてみることは、
そんなに難しいことではないでしょう。

ただし、ここで厄介なのは、
自分の年齢による変化と、流行の変化、
両方が完全に古いものになった場合です。
いつまでも若いときに好きだった格好、好きだった流行のスタイルを、
無自覚に何年も続けていくと、
自分の現実、ファッションの現在との差はどんどん開いていきます。
変化しているのに認めない、
ある時点でずっと止まっているそのかたくなな感じは、
全くおしゃれではないのですが、
あるとき、そのギャップに愕然とするときがやってきます。
それは街でウィンドウにうつる自分の姿を見たときかもしれないし、
同年代の人たちと集まるホテルでの会合で、
パウダールームで化粧直しをしようとした、その瞬間かもしれません。
そのときはあたかも自分の構築してきた世界が崩壊するように思えるでしょう。
家に帰ってタンスの扉を開けたとき、
そこにある服すべてが死んで見えるような、そんな体験をするかもしれません。
であるならば、すべきことは1つ。
死んだ服とはすべてさよならすることです。
もうそれは生きてはいないのです。
クリーニングに出しても生き返りません。
かろうじて、息絶え絶えでも使えそうな数点を残し、
残りは売るなり、あげるなり、処分するなりすることが必要です。
なぜなら、もはや死んでしまったかのように見える服は、
その人をどこへも連れていってはくれないからです。
それだけではなく、それはその人の足を引っ張る存在になります。
着ては気分が落ち込み、誰かに会うのが嫌になり、
劣等感を助長し、
決して助けてはくれない。
そんな服は持っていても仕方ありません。
数点だけ残した服で当分のあいだ過ごし、
新しく生き生きしている服に出会えるまでは我慢すること。
これは長いこと、時間を無視してきたことによる病のリハビリ期間です。
少しのあいだリハビリを続ければ、また新たに着たいと思える服に出会えるでしょう。

さて、最後です。
気分が変わったときはどうするか。
体型的な変化もない、引っ越ししたわけではない、
仕事も同じ、
自分が老けこんでしまったわけでもない、
それでも完全に気分が変わってしまって、
どうしても今持っている服が着たくないときが、
人には訪れます。
そのときにやるべきことは、これからどうやって生きていきたいか、
徹底的に考えること。
仕事を変えたいのか、
引っ越ししたいのか、
付き合っている人を変えたいのか、
今までと違うものを食べたいのか、
旅行に出たいのか、
何か新しい挑戦をしたいのか、
その変わった「気分」とは何なのか、
自分と向き合って、その答えを探し、
見つけたら、それに対してコミットメントすることが必要です。
それが決まらないのなら、次のワードローブの方向性は決まりません。

主人公は何のために、どこへ向かうのか。
「完全な気分の変化」という1つの崩壊の体験を経て、
人生のテーマはどう変わるのか、
何を目指すのか。
そして、それにふさわしいワードローブは何か。
それらはすべて自分で決めるべき事項です。
ですから、自分で決めて、それに対してコミットメントしない限り、
次に進むことはできません。

主人公は、崩壊した世界から新しい旅に出ます。
そのためには新しいワードローブが必要です。
どうしたいのかを決めたのなら、
おのずと必要なワードローブは決まってきます。
都会へ行くのなら都会の服が、
田舎へ行くのなら田舎の服が、
好きな仕事を始めるのなら、それにふさわしい服装が、
好きな誰かと暮らすなら、2人一緒に出かけるときの衣装が、
それぞれ必要になってきます。

ボディだけではなくハートを動かすエネルギーをもった
ワードローブへのアップデートは、
主人公に自信を与え、
どこへ行っても、誰と会っても、何をしても、
幸せを感じることができるものでなくてはなりません。
それでなくては意味がありません。

自分のハートは何によって動かされるのか、
どんなものを着ていれば、ボディは自然と動くのか、
それを知っているのは自分だけ。

自分自身に問いかければ、必ず答えは出てきます。
なぜなら、問いと答えは常に同時に存在しているからです。
どこにあるのかと問いかけた瞬間、
ここにあるという答えはもう既に存在しています。

答えは既に存在しています。
あとはそこへ向かって自分で歩いていくだけ。
自分で歩いていったものだけが、その答えにたどりつけます。
自分で歩いていったものだけが、満足のいくワードローブを構築できます。
誰かが持ってきてはくれません。
すべては自分次第です。

自分に向き合えば向き合うほどに、
ワードローブのアップデートは簡単にできます。
人生とは変化です。
ワードローブのアップデートは人生が変化、進化する限り続きます。
ボディとハートを100パーセント動かすためにも、
どうぞワードローブのアップデートをお忘れなく。
それはいつも自動的になされるものではなく、
手動でしなくてはならないものですから。

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2015年7月1日水曜日

洋服の色合わせ その3

さて、色そのものの法則、
そして洋服という素材とシルエットにのったときの色について述べてきました。
次に、それが実際に人が、どこかの場で着たときの見え方についてです。

周知のとおり、色はその光によって見え方が変わってきます。
主には太陽光線、人工光線の2種類の光源があります。
また、太陽光であっても、緯度経度によって、
人工光線であれば、その光源の性質によって、色の見え方は変わってきます。

容易に想像できるのは、
ハワイで見る色の見え方と東京で見る色の見え方の違いです。
赤道に近く、太陽の光が頭上から降り注ぐハワイと、
それより北極側に位置する東京では、当然のことながら、
光の見え方は違います。
そしてその東京においてさえ、春分点、秋分点、冬至、夏至のころでは、
太陽の傾きがかわり、光線は変わります。
そのつど、同一の色でも同じようには見えません。

一方、人工光線では、
蛍光灯、LED、白熱灯によって、色の見え方が変わってきます。
太陽光下での色の見え方があくまで基準で、
それに対して人工光線がどのように見えるかをあらわす言葉が演色性です。
演色性が高いほど、太陽光に近く、低いほど、太陽光下とは違った見え方をします。
家庭やオフィスなどで多く使われる蛍光灯は、
この演色性が低く、太陽光線下で見たときと、同じ色の見え方はしません。
色のスペクトル分布がまばらなため、拾う色と拾わない色があらわれます。
蛍光灯下での食品が著しくまずそうに見えるのはそのためです。

また、余り語られてはいないことですが、
目の色によっても、色の見え方は変わります。
フィルムの現像が当たり前の時代、コダックを使うか、富士フィルムを使うかで、
上がりの写真は色が違って見えました。
あの差は日本人の目の色の見え方の差と、西洋人の目の色の見え方の差をあらわしています。
つまり、同じ人間という種族でも、人それぞれ色の見え方は違うのです。

ここからわかることは、色とは絶対的な現象ではない、ということです。
光源、目の色、太陽の緯度経度、時間、季節、環境によって、
見え方は変わる、それが色の特徴です。
色とは関係によって変わる、恣意的な現象です。

洋服の色合わせについて考えるとき、もっとも重要なことは、
関係によって変わる色の恣意性をどこまで把握するか、
どこまで自分を客観視できるか、ということです。
自分にとってふさわしい色とは、決してとある一室の、誰か1人が、
ひとつの光源において見た、
その季節、その時間の肌の色によって決められるものではありません。
それは全くもって客観的ではないのです。
ですから、私たちはその「誰か1人」よりもより大きな視点で、
客観的に色を判断する必要があります。

蛍光灯の下ではえる色、
湘南の海辺で太陽の照り返しを受けて似合う色、
都会の劇場のロビーの薄暗い照明の下、
シャンパングラス片手に誰かと談笑するときに引き立つ色、
その色がのるテクスチャーとシルエット、
そしてそれを着る人の動き、
それがしめやかなものなのか、激しいダンスのようなものなのか。
そして季節による変化、
子供の肌と大人の肌での光の反射の仕方の違い。

暖炉の前、焔に照り返されたときのニットの色合い。
オペラ座のバルコニー席で、絹ずれの音とともに翻る赤い絹のドレスの裾の色、
そこからのぞく黒いエナメルのパンプスの輝き。
鉛色の空、寒い冬の朝のオフホワイトのダッフルコートが、
ダークスーツの集団の中、光っている様子。
立春が過ぎて、太陽光線の傾きが穏やかになり、
春霞の中、明るさと暖かさをもたらす、やわらかなカシミアニットのピンク。
バラ園のバラと緑に似合う、花柄のシャツやドレス。
真夏の海辺、焼けた肌に似合う白、青、赤のトリコロール。
紅葉の森を散歩するときの、オイルドコットンのカーキなどなど。

もっとも美しく、そしておしゃれに見える洋服の色合わせは、
基本の色のルールをおさえた上で、
どれだけその人がそのシーンにふさわしいかで決まります。
それは自分の顔と洋服を鏡の前であわせただけではわかりません。

それがわかるようになるためには、
そのシーンにおいて自分がどんな見え方をしているのか、
常に気を配り、学習していくこと必要です。
海に行かなければ、海の光はわかりません。
劇場に行かなければ、劇場の照明はわかりません。
森に行かなければ、木漏れ日を知らず、
雪原に立たなければ、白銀の世界はわかりません。
すべての経験、すべての行動のたびに、光について学習し、
その都度、色の見え方を確認します。
それは訓練です。
やらないことには、上達はしません。
誰か素敵な色合いの人がいたら、どこがよいと思ったのか観察し、自分に取り入れ、
真似したくない人がいたら、自分は同じようにはしない。
引っ越したらそこの環境を観察し、
仕事場が変わったら、そこにふさわしい色合いを工夫する。
その繰り返しの結果、人はそのシーンにふさわしい洋服の色合わせをすることが可能になります。


洋服の色合わせは決して簡単なものではありません。
だけれども、簡単ではないからこそ、面白いのです。
そしてやればやるほど上達していきます。
それに取り組むか、取り組まないかは、人それぞれです。
絶対的な1つの答えはありません。
なぜなら、ファッションとは変化だからです。

変化を否定するもしないも、お気に召すまま。
それはその人の生き方です。
けれども、どちらを選ぼうとも、人生という舞台は続きます。
自分が演じられるのは、自分だけです。


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2015年6月15日月曜日

洋服の色合わせ その2 

次は色が服にのったときの影響についてです。
洋服は柔軟性があり、平面的で、表面のバリエーションに富んだ布を、
パターンどおりにカットし、立体的に縫い合わせることができ上がります。
絵画と服のもっとも大きな点はこの点です。
紙の上に水彩絵の具やグワッシュ、油絵具をのせる絵画と違い、
布はそのものに色があり、素材も木綿、化学繊維、絹、羊毛と変化に富み、
何十種類もの織り方があります。
そのため、当然のことながら、色は紙の上にのせるものとは、
全く違って見えるようになります。
紙の上の色と、布の上の色は同じではなく、
比べようのないものですから、
同一に述べることはできません。

繊維は糸から織りあげられるものですが、
先染め、または後染めという方法で染色されています。
先染めとは糸の状態のものを染めて繊維とする方法、
後染めとはでき上がった繊維を染める方法です。
(そのほかに製品になったものを染める製品染めという方法もあります)

先染めは糸がすべて染まっているので、
布の表と裏の見分けがつきにくく、
後染めはプリントなどのように、裏は染まっていないため、
表と裏が判断しやすいものです。

糸の特性、
繊維を織る方法と、その種類、
染色の方法によって、同じ色でも見え方は変わります。
例えば、同じ黒だとしても、
先染めで織られるウールサージの黒、
起毛しているヴェルヴェットの黒、
表面に光沢のあるサテンの黒、
織りが複雑なアストラカンの黒、
蝉の羽のようなオーガンジーの黒、
このどれも、同じ染料を使ったとしても、同じようには見えません。
またこれら、素材が木綿、化学繊維、ウールと変わることによっても、
違って見えます。

洋服は、着物と違い、布1枚を畳んだだけの形では構成されていません。
パターンにしたがいパーツごとに裁断され、
組み立てられることにより完成します。
組み立てられた服は、必ずシルエットを持ちます。
シルエットとは物の輪郭という意味ですが、
洋服の場合、輪郭だけではなく、立体のあり方も示します。
つまり、ダーツはどのように処理されたか、
身体にフィットするのかしないのか、
ドレープは出るのか、
プリーツは畳まれているのか、
フリルやレースなど、装飾はあるのか、
ポケットなど、あとから付け足されたものはあるのか、
ボタンやリボンはついているのか、
襟はどんな形なのか、
裾はどんな処理がされているのか、
袖口やズボンの裾は折り返すのかどうか、
などなどです。
そして、その扱いによってもまた、同じ色の見え方が変わってきます。

例えば、同じ黒で光沢のあるシルクサテンで作られたドレープと、
重厚なウールのフェルトで作られたドレープ、
オーガンジーのドレープでは、
光の反射の仕方が変わってきます。
サテンの場合は陰影が深くなり、ドレープの溝が陰としてくっきり暗くなりますが、
フェルトの場合は、布の表面に光を吸収するため、ドレープの溝ははっきりしません。
また、オーガンジーによるドレープは向こう側も透けて見えるため、軽やかな感じが残ります。

洋服のパターンは通常、シーチングと呼ばれる、
木綿のフラットな素材で1度、形を作り、ドレープやギャザー、ダーツの具合をチェックします。
シーチングが使われるのは布がフラットで、光沢もなく、
かといって光を吸収することもなく、洋服のシルエットによる陰影がチェックしやすいからです。
タックをとれば、陰の色は濃くなり、
すべてダーツで処理すれば、表面に陰影はなくなります。

シルエットを作ったときにあらわれる陰影を確認してから、
そのパターンで実際の生地を使い洋服を作ったならば、
そのときにまた陰影の具合は変わります。
そして、そのでき上がった服を人間が着て歩いたなら、
また見え方は変わってきます。
私たちはこの過程において、同じ黒でも何十種類の黒に出会うことになります。

ヴェルヴェットの黒と、オーガンジーの黒、
シルクサテンの黒と、スウェードの黒を同じ黒であると、
ファッションにおいてはみなしません。
そこにドレープがあるならば、
フリルがつくならば、
立体的にポケットを組み立てるならば、
それはすべて違う「黒」です。
だからこそ、黒1色のコーディネイトは成立するのです。
その同じ黒の中に、何十種類もの黒を見るのが、ファッションを志向する者です。
あの「黒」と、この「黒」を同じとは決して考えない。
「黒」を単純な1つの色に閉じ込めない。
すべての可能性を探求し、それを見分ける者がファッションに携わる者であり、
それをしないのならば、それはファッションとは関係のないもの。
ファッションについて考えるのならば、
その点を間違ってはいけません。

次回は、これら素材とシルエットによって変わる色が、
実際、人が着た場合にどうなるかの説明になります。

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2015年6月1日月曜日

雑誌のような服ではなく、名作や古典を

色についての続きを書く予定でしたが、違うことを思いついたので、
そちらを先に書きます。

例えば春の初めに売りだされた服は、
盛夏を迎える前にセールに出され、
3割引から5割引きで売りに出されます。
年々、セールの開始時期は早まり、
今ではいつでもどこでもどこかで何かがセール品として売られています。

企画に時間をかけ、生地を織り、縫製をし、
プレスをかけ、配送され、店頭に並んでデビューしても、
わずか3カ月やそこらで値引きされてしまう。
半年たてば半額に、1年たてば8割引近くにもなる。
しかもそのものは腐ったわけでも、傷んだわけでも、
機能が落ちたり、足りなかったりしたわけでもない。
そんな商品は、この世の中が広しと言えども、
そう多くはありません。
家電やIT機器には少なからずその傾向がありますが、
それでも次の新作が発表されるときは、
何かしらの進化や付加価値が足されています。

企画について考えた、多くの人の知恵と手を結集させた、
クオリティも追及した、
それでもほんの少しの期間で価値がどんどん下がっていくもので、
ファッション以外の分野で考えられるのは雑誌です。
必ずしも雑誌の内容そのものが古くなったわけではなく、
ものとして擦り切れたり、傷んだりしているわけでないにもかかわらず、
次の発売日が来れば、価値がなくなり、古本屋で半額以下で売りだされるもの、
それが雑誌です。

それでも雑誌は、情報を提供するという性格上、
新しさが身上となりますから、
古くなったものは価値がなくなると考えられても仕方がないとは思います。
では、洋服は?バッグは?靴は?
どうなのでしょうか。

いつごろからか、
この社会では、服やバッグや靴を雑誌のように扱い始めました。
つまり、それらは情報となったのです。
情報であるならば、古さは致命傷となり、ほとんど顧みられることはなくなります。
古雑誌はリサイクルの対象であり、
古紙へのサイクルの中に組み込まれています。

しかし、私たちの本棚は、雑誌だけで占められているわけではありません。
人によって何をどれだけ持っているかは変わってくると思いますが、
古典や名作と呼ばれる本、好きで何度も読み返す本、
豪華な装丁のいつもそばに置いておきたい写真集など、
必ずしも情報として消費するわけではない、
私たちの精神と心の栄養となる本も多くあるはずです。

では洋服は?
すべてが情報として新しさだけに価値があり、
早い速度で消費されるものだけでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
世界の名だたる装飾美術館、
例えばロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムや、
パリの装飾美術館には、
何年も前に作られたものにもかかわらず、
今だに人々を魅了し、あまつさえ、欲しいと思うような、
そんな服や靴や装飾品が展示されています。
誰もが、
自分のワードローブもこのようにありたいものだと羨望と憧れで、
それらの衣装を眺めることでしょう。

ほとんどの雑誌は美術館や博物館に展示されることはありません。
希少なもの、もしくは著名な美術家が挿絵をえがいたものなどを除いては、
雑誌は永久展示品の対象外です。
なぜならほとんどの雑誌は長く展示する価値がないからです。
耐えられないのは経年による紙の劣化ではなく、
その内容の陳腐さ、貧しさからです。
そこに豊かさはないのです。

もし、自分のワードローブが博物館に飾られるような古典や名作よりも、
決して博物館になど飾られることがないとわかっている雑誌のような服たちであふれていたら、
なぜそうなのか、考えてみるとよいでしょう。
新しさに飛びついたばかりにおざなりにしたものは何なのでしょうか?
ジャンクフードが身体と心に必要な栄養を摂取するためのものではなく、
不健康と贅肉をただただもたらすもののように、
新しさにだけ価値があるその「情報」としての服がもたらしたのは、
たくさんあっても満たされない、
精神と心の栄養失調ではなかったでしょうか?

多くのものの中にまぎれてはいますが、
確かに服や靴やバッグの中には古典や名作があります。
それはまるで、分類されていない本屋の棚のように、
よく見なければ見つけられないところ、
または脚立がなければ手が届かないようなところに、
確かにあります。
私たちはもう少し、古典や名作を読む必要があるように、
ワードローブにも古典や名作が必要です。
それは10年たっても、いまだに新しく、着るたびに感動を与えてくれるのです。

10年も15年も大事に着続けて、
まだ捨てられない服が多いということは、
この名作や古典を多く集めてきたということです。
何も恥じることはありません。
今の流行作家など、10年たてば、誰も読みはしません。
名前さえも忘れ去られていることでしょう。

服を作る側のほんの一部は、
自分の作品を名作や古典にしたいと考えています。
そのつもりで服を作り続けています。
大量生産で、ひともうけしようとしている人ばかりが服を作っているわけではありません。
信念と経験と美学があって、
それを何とか形にして、
美術館に入るようなマスターピースを作ろうと努力しているデザイナーやメーカーはあります。

市場の判断が必ずしも正しいわけではありません。
ここ数年、その市場は、服を情報としてとらえ、
貧しさをそこかしこに蔓延させました。
買う側へも、作る側へも。
その市場とは、多くの人たちの消費行動です。
私たちの行動が変われば、市場も変わります。
誰もが忌み嫌う貧しさを自分にもたらしたのは、
市場を形成する私たち一人一人です。

私たちも雑誌ばかりではなく、
名作と古典、そして何度も読み返す本や、美しい写真集で構成された本棚のような、
そんな美しい、そして教養のようなワードローブを構築してみたらいかがでしょうか。

今の日本では、それが可能です。
私たちはかつてないほどに、
美術館の所蔵品が手に入れられるような時代に生きています。
これがいつまで続くかわかりません。
できるときにできることを、
死ぬ時に後悔しないように、
すべての貧しさから脱するために。
それが今の私たちの責務であると、
私は考えます。


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2015年5月15日金曜日

洋服の色合わせ その1


そぎ落とされたシンプルなデザインと、
モノトーンで構成されたスタイルの時代を経て、
複雑な構造とシルエット、
そしてカラフルな色合いのスタイルの時代になりました。
そうなると、モノトーンの時代には考える必要がなかった、
洋服の色合わせについて、
どうしたらいいのかという問題が出てきます。

洋服の色合わせを考えるとき、考慮すべき点は以下のものです。
・洋服そのものの色
・素材
・デザイン、シルエット
・シーン(照明と背景、周囲の人々)

まずは色そのものから説明します。
洋服の色合わせを考えるとき、基本となるのは、
明度と彩度をあわせる、
または明度および彩度のグラデーションです。

これを理解するためにはまず
明度、彩度、そして色そのものである純色について理解しておく必要があります。

明度とは、理想的な黒から理想的な白までのあいだの明るさの度合いです。
英語ではValueとなり、表記は通常Vです。
彩度とは、色見のない無彩色から、
あざやかさがもっとも高い純色までのあざやかさの度合いです。
英語ではChromaとなり、通常、表記はCです。

純色とは、赤、青、黄の色の三原色のほか、
使われる色相環によってその区分けは異なりますが、
そのほか主にオレンジ、紫、緑を足したもので、
その色の混ざりけのない、もっともあざやかな純度の高い色になります。

洋服の色合わせの基本、明度と彩度をあわせるですが、
日本の日本色配色体系は、これをわかりやすく12のトーンに分け、
名前をつけて分類しています。
その分類は以下のとおりです。
ペール、
ライト、
ブライト、
ソフト、
ストロング、
ヴィヴィッド、
ダル、
ディープ、
ダーク、
ライトグレイッシュ、
グレイッシュ、
ダークグレイッシュです。
(参照サイトはこちら
これら、彩度と明度のある範囲を囲ったトーン内で、
すべてのコーディネイトをあわせる、
というのが1つの色合わせの方法です。

つぎはグラデーションです。
これは明度のグラデーション、彩度のグラデーション、
両方、あり得ます。
わかりやすいのは白から黒のグラデーションに代表される明度のグラデーションです。
これは明度の低いものから高いものですが、
簡単に使われるのはこちらのほうです。
彩度に差をつけていっても、おかしいことはありませんが、
絵具ではないので、徐々に彩度を高くしていくという方法を、
洋服で表現していくのは、物理的に難しくなります。

また洋服にはさし色といって、
まとめたトーンやグラデーションとは違う色を投入する手法がよく使われます。
さし色は通常、全体の面積の中で使われる面積が少なく、
ポイントとなる色のことで、
その選び方に、特にこれといったルールはありません。
同じトーンの中でどれか1色をさし色として使っても構いませんし、
例えば、グレイッシュにヴィヴィッドを1色投入するなどの使い方も可能です。

色には赤と緑、黄色と青のような補色関係がありますが、
さし色を補色にしなければならないということもありません。
ただしもちろん、補色をさし色として持ってくれば、
お互いが引き立て合って、よりいきいきとしたスタイルになることは確かです。

さし色の使い方としては、
全体の中に1点投入する、
または点在させてリレーションを形成するの
2つの方法があります。
全体の中に1点投入した場合は、その1点のものを特に目立たせる効果が、
また、点在させリレーションを形成すれば、おしゃれな感じが自然と表現できます。
それはどちらを選んでも構いません。

またこれらの色合わせのほか、
洋服の世界でよく使われる色遣いに白から黒のモノトーンによるスタイルがあります。
白から黒は流行に左右されにくく、
常に使われる色遣いです。

白から黒のモノトーンには、色のあざやかさである彩度がありません。
白から黒は色ではなく、光の明るさだからです。
ですから、白から黒のモノトーンはどんな色とも合わせることが可能です。
それは白や黒のスクリーンの前にどんな色を持ってきても映えるのと同じことで、
どんな色をそこに持ってきても許されます。
同様に、白から黒の中間であるグレーも、
どんな色でも合わせられます。
これらは光と影の陰影なので、色見がないからです。
ただし、どれもその条件を満たすのは、
純粋で色見のない、混じりけのない白から黒であり、
少しでも黄色が混ざっていたり、青が混ざっていたりすると、
合う色は変わってきます。
クリーム色もグレイッシュなベージュも、純粋なモノトーンではありません。

さて、服の色は画用紙の上の絵具と同じではありません。
その色はどれも布地の上にのっかります。
素材の特質によって、純粋な色はまた違ったように見えてきます。
それが絵画や印刷物とは違う、洋服の面白さでもあるのです。

長くなりましたので、
後半部はその2に続きます。

参考文献:「COLOR BOOK  based on the Munsell system」 Bunka Collage of Fashion

写真:オスワルトの色相環。向かい合う色が補色関係になる。

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2015年5月1日金曜日

デザイン、生地、色

服がデザインされて製品化されるまでには、
段階があります。
その段階で最も重要なのは、
生地の選定、
色だし、
デザインの決定です。

これはブランドによって違うのですが、
デザインを決定する際、
先行して生地がもう既に存在している場合と、
デザインにあわせて生地を探し選定、または一から作る場合とがあります。
生地の色については、そのデザインにあわせて色だし(染め)をする場合と、
これもやはりもう既にある色の中から選択する場合とがあります。
どちらにも共通して言えるのは、
生地とデザインは切っても切れない関係であるということです。

生地とデザインがなぜ切っても切れない関係なのかということは、
生地の性質によって、
そのデザインが成り立つかどうかが決定してしまうからです。

例えば、デザインを先に考えて、
美しいドレープを出したい場合は、
生地にこしがなく、かつ薄手のジョーゼットやクレープを選ばなくてはなりませんし、
逆に構築的、立体的な形を出したければ、
厚手のしっかりしたフェルトやメルトンを使わなければなりません。

デザインではなく、使いたい生地が先にあった場合には、
その生地に合ったデザインを考えます。
シルクシフォンなら、ふんわりして、軽やかなギャザーやドレープが可能になりますし、
しっかりしたツイードなら、ジャケットやタイトスカートに向いています。

デザイナーは、その生地の特性、質感、適するデザインについて熟知している必要があります。
そうでなければ、服をデザインして製品にすることはできません。

生地とデザインの関係が決定したら、
つぎは色の選定です。
時代の色というものも必ずありますし、
また、デザインの上で必要な色というものもあります。
若さを表現したいのなら、ヴィヴィッドでポップな色合いに、
シックでエレガントなら、モノトーンやグレイッシュトーンに、
エスニックやトライブと言われる民族衣装をオリジナルとしたものなら、
その地域や文化圏の色が選ばれます。

このように1つのデザインされた服を完成させるためには、
この3つの要素はそれぞれに必要で、
交換不能な関係を持ちます。

交換不能な理由は、そこには意図があるからです。
若さなのか、
シックなのか、
エレガントなのか、
フェミニティなのか、
ジェンダーフリーなのか、
時代の最先端なのか、
リバイバルなのか、
意図があるからこそ、それらが選択されます。
もしここに意図がないのなら、それらはどうでもいいことです。
その時点で、それはデザインではありません。

デザインにはそれぞれ意図があり、
製品としての服になります。
その結果、意図の数だけ服のバラエティが豊かになります。
ファッションとはまさにそのことです。
多様性であり、豊かさです。
これがデザインする側、
ファッションを志向する側の姿勢です。

しかし同時に、それとは逆の姿勢の勢力も存在するのが現代です。
多様性や豊かさを否定し、
大量生産大量消費を礼賛します。
なぜなら、単純な同じものを大量に作ったほうが、
莫大な利益が得られるからです。
彼らにとって重要なのは、デザイナーの意図などではなく、
利益の追求です。

そのためにはデザインを極力シンプルに、
生地はなるべく同じものに、
色も決められた、ほんの少しの色の中から選びます。
デザインの意図などなく、
志向しているのは効率、安価、インスタントであることです。

2000年以降、
アパレル業界は、この2つの潮流に分かれました。
残念ながら、「莫大な利益」を得た側の影響力は強いです。
大量の宣伝、プロモーション、啓蒙活動が功を奏して、
多くの人が、ファッションの多様性、豊かさを選ばないままやってきました。
疑いもなく。

その結果、得られたものは、
感覚の鈍感さです。
明らかに、私たちの感覚は鈍感になっています。
芸術家、建築家、インテリアデザイナー、庭園デザイナーなど、
色と質感とデザインを扱う職業や、その勉強をしている人たちでない限り、
色の違いや、質感の違いに対する感度が鈍く、
差が認識できなくなっています。

何千種類ものウールの手触りを、
当たる光によって変化するヴェルヴェットの陰影の多彩さを、
デザイン、生地、色、すべてがマッチしたときの完璧な服の存在を、
そんなものすべてを振り切って、
簡単で、わかりやすく、インスタントなものを求めた結果、
私たちは豊かさを失いました。
多くの、傷んではないけれども、もう着られない服の山の真ん中で、
感じるのは、たくさんあることの豊かさではなく、
貧しさです。
それは、やせた感覚の貧しさです。

さて、貧しい人生など、ここらでやめてみてはいかがでしょうか?
かけたお金は少なくはありません。
金銭的に見てみたら、決して貧しくはありません。
貧しかったのは、その感性です。

何千種類ものウールの手触りを、さわっただけで瞬時に判断できるように、
バラとフランネル草とスイレンの葉の緑の違いのようなツイードの色彩が、
朝と昼と夕方では違うのだとわかるように、
袖を通した瞬間に、その服をデザインしたデザイナーと気持ちが通じるように、
失った15年の感性を、今から取り戻せばいいのです。

それは簡単なことではありません。
それは一朝一夕ではできません。
感性を眠らせている間にすぎていった時間を取り戻すのですから、
あるいは同じだけの時間がかかるかもしれません。
それでも、その価値はあるのです。
なぜなら、それこそが豊かであるということだから。
そして、
皮革とサテンとヴェルヴェットとウールギャバジンの黒の見え方の違いがわかる、
豊かな感性の持ち主こそが、おしゃれな人であるからです。


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