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2015年5月15日金曜日

洋服の色合わせ その1


そぎ落とされたシンプルなデザインと、
モノトーンで構成されたスタイルの時代を経て、
複雑な構造とシルエット、
そしてカラフルな色合いのスタイルの時代になりました。
そうなると、モノトーンの時代には考える必要がなかった、
洋服の色合わせについて、
どうしたらいいのかという問題が出てきます。

洋服の色合わせを考えるとき、考慮すべき点は以下のものです。
・洋服そのものの色
・素材
・デザイン、シルエット
・シーン(照明と背景、周囲の人々)

まずは色そのものから説明します。
洋服の色合わせを考えるとき、基本となるのは、
明度と彩度をあわせる、
または明度および彩度のグラデーションです。

これを理解するためにはまず
明度、彩度、そして色そのものである純色について理解しておく必要があります。

明度とは、理想的な黒から理想的な白までのあいだの明るさの度合いです。
英語ではValueとなり、表記は通常Vです。
彩度とは、色見のない無彩色から、
あざやかさがもっとも高い純色までのあざやかさの度合いです。
英語ではChromaとなり、通常、表記はCです。

純色とは、赤、青、黄の色の三原色のほか、
使われる色相環によってその区分けは異なりますが、
そのほか主にオレンジ、紫、緑を足したもので、
その色の混ざりけのない、もっともあざやかな純度の高い色になります。

洋服の色合わせの基本、明度と彩度をあわせるですが、
日本の日本色配色体系は、これをわかりやすく12のトーンに分け、
名前をつけて分類しています。
その分類は以下のとおりです。
ペール、
ライト、
ブライト、
ソフト、
ストロング、
ヴィヴィッド、
ダル、
ディープ、
ダーク、
ライトグレイッシュ、
グレイッシュ、
ダークグレイッシュです。
(参照サイトはこちら
これら、彩度と明度のある範囲を囲ったトーン内で、
すべてのコーディネイトをあわせる、
というのが1つの色合わせの方法です。

つぎはグラデーションです。
これは明度のグラデーション、彩度のグラデーション、
両方、あり得ます。
わかりやすいのは白から黒のグラデーションに代表される明度のグラデーションです。
これは明度の低いものから高いものですが、
簡単に使われるのはこちらのほうです。
彩度に差をつけていっても、おかしいことはありませんが、
絵具ではないので、徐々に彩度を高くしていくという方法を、
洋服で表現していくのは、物理的に難しくなります。

また洋服にはさし色といって、
まとめたトーンやグラデーションとは違う色を投入する手法がよく使われます。
さし色は通常、全体の面積の中で使われる面積が少なく、
ポイントとなる色のことで、
その選び方に、特にこれといったルールはありません。
同じトーンの中でどれか1色をさし色として使っても構いませんし、
例えば、グレイッシュにヴィヴィッドを1色投入するなどの使い方も可能です。

色には赤と緑、黄色と青のような補色関係がありますが、
さし色を補色にしなければならないということもありません。
ただしもちろん、補色をさし色として持ってくれば、
お互いが引き立て合って、よりいきいきとしたスタイルになることは確かです。

さし色の使い方としては、
全体の中に1点投入する、
または点在させてリレーションを形成するの
2つの方法があります。
全体の中に1点投入した場合は、その1点のものを特に目立たせる効果が、
また、点在させリレーションを形成すれば、おしゃれな感じが自然と表現できます。
それはどちらを選んでも構いません。

またこれらの色合わせのほか、
洋服の世界でよく使われる色遣いに白から黒のモノトーンによるスタイルがあります。
白から黒は流行に左右されにくく、
常に使われる色遣いです。

白から黒のモノトーンには、色のあざやかさである彩度がありません。
白から黒は色ではなく、光の明るさだからです。
ですから、白から黒のモノトーンはどんな色とも合わせることが可能です。
それは白や黒のスクリーンの前にどんな色を持ってきても映えるのと同じことで、
どんな色をそこに持ってきても許されます。
同様に、白から黒の中間であるグレーも、
どんな色でも合わせられます。
これらは光と影の陰影なので、色見がないからです。
ただし、どれもその条件を満たすのは、
純粋で色見のない、混じりけのない白から黒であり、
少しでも黄色が混ざっていたり、青が混ざっていたりすると、
合う色は変わってきます。
クリーム色もグレイッシュなベージュも、純粋なモノトーンではありません。

さて、服の色は画用紙の上の絵具と同じではありません。
その色はどれも布地の上にのっかります。
素材の特質によって、純粋な色はまた違ったように見えてきます。
それが絵画や印刷物とは違う、洋服の面白さでもあるのです。

長くなりましたので、
後半部はその2に続きます。

参考文献:「COLOR BOOK  based on the Munsell system」 Bunka Collage of Fashion

写真:オスワルトの色相環。向かい合う色が補色関係になる。

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2015年5月1日金曜日

デザイン、生地、色

服がデザインされて製品化されるまでには、
段階があります。
その段階で最も重要なのは、
生地の選定、
色だし、
デザインの決定です。

これはブランドによって違うのですが、
デザインを決定する際、
先行して生地がもう既に存在している場合と、
デザインにあわせて生地を探し選定、または一から作る場合とがあります。
生地の色については、そのデザインにあわせて色だし(染め)をする場合と、
これもやはりもう既にある色の中から選択する場合とがあります。
どちらにも共通して言えるのは、
生地とデザインは切っても切れない関係であるということです。

生地とデザインがなぜ切っても切れない関係なのかということは、
生地の性質によって、
そのデザインが成り立つかどうかが決定してしまうからです。

例えば、デザインを先に考えて、
美しいドレープを出したい場合は、
生地にこしがなく、かつ薄手のジョーゼットやクレープを選ばなくてはなりませんし、
逆に構築的、立体的な形を出したければ、
厚手のしっかりしたフェルトやメルトンを使わなければなりません。

デザインではなく、使いたい生地が先にあった場合には、
その生地に合ったデザインを考えます。
シルクシフォンなら、ふんわりして、軽やかなギャザーやドレープが可能になりますし、
しっかりしたツイードなら、ジャケットやタイトスカートに向いています。

デザイナーは、その生地の特性、質感、適するデザインについて熟知している必要があります。
そうでなければ、服をデザインして製品にすることはできません。

生地とデザインの関係が決定したら、
つぎは色の選定です。
時代の色というものも必ずありますし、
また、デザインの上で必要な色というものもあります。
若さを表現したいのなら、ヴィヴィッドでポップな色合いに、
シックでエレガントなら、モノトーンやグレイッシュトーンに、
エスニックやトライブと言われる民族衣装をオリジナルとしたものなら、
その地域や文化圏の色が選ばれます。

このように1つのデザインされた服を完成させるためには、
この3つの要素はそれぞれに必要で、
交換不能な関係を持ちます。

交換不能な理由は、そこには意図があるからです。
若さなのか、
シックなのか、
エレガントなのか、
フェミニティなのか、
ジェンダーフリーなのか、
時代の最先端なのか、
リバイバルなのか、
意図があるからこそ、それらが選択されます。
もしここに意図がないのなら、それらはどうでもいいことです。
その時点で、それはデザインではありません。

デザインにはそれぞれ意図があり、
製品としての服になります。
その結果、意図の数だけ服のバラエティが豊かになります。
ファッションとはまさにそのことです。
多様性であり、豊かさです。
これがデザインする側、
ファッションを志向する側の姿勢です。

しかし同時に、それとは逆の姿勢の勢力も存在するのが現代です。
多様性や豊かさを否定し、
大量生産大量消費を礼賛します。
なぜなら、単純な同じものを大量に作ったほうが、
莫大な利益が得られるからです。
彼らにとって重要なのは、デザイナーの意図などではなく、
利益の追求です。

そのためにはデザインを極力シンプルに、
生地はなるべく同じものに、
色も決められた、ほんの少しの色の中から選びます。
デザインの意図などなく、
志向しているのは効率、安価、インスタントであることです。

2000年以降、
アパレル業界は、この2つの潮流に分かれました。
残念ながら、「莫大な利益」を得た側の影響力は強いです。
大量の宣伝、プロモーション、啓蒙活動が功を奏して、
多くの人が、ファッションの多様性、豊かさを選ばないままやってきました。
疑いもなく。

その結果、得られたものは、
感覚の鈍感さです。
明らかに、私たちの感覚は鈍感になっています。
芸術家、建築家、インテリアデザイナー、庭園デザイナーなど、
色と質感とデザインを扱う職業や、その勉強をしている人たちでない限り、
色の違いや、質感の違いに対する感度が鈍く、
差が認識できなくなっています。

何千種類ものウールの手触りを、
当たる光によって変化するヴェルヴェットの陰影の多彩さを、
デザイン、生地、色、すべてがマッチしたときの完璧な服の存在を、
そんなものすべてを振り切って、
簡単で、わかりやすく、インスタントなものを求めた結果、
私たちは豊かさを失いました。
多くの、傷んではないけれども、もう着られない服の山の真ん中で、
感じるのは、たくさんあることの豊かさではなく、
貧しさです。
それは、やせた感覚の貧しさです。

さて、貧しい人生など、ここらでやめてみてはいかがでしょうか?
かけたお金は少なくはありません。
金銭的に見てみたら、決して貧しくはありません。
貧しかったのは、その感性です。

何千種類ものウールの手触りを、さわっただけで瞬時に判断できるように、
バラとフランネル草とスイレンの葉の緑の違いのようなツイードの色彩が、
朝と昼と夕方では違うのだとわかるように、
袖を通した瞬間に、その服をデザインしたデザイナーと気持ちが通じるように、
失った15年の感性を、今から取り戻せばいいのです。

それは簡単なことではありません。
それは一朝一夕ではできません。
感性を眠らせている間にすぎていった時間を取り戻すのですから、
あるいは同じだけの時間がかかるかもしれません。
それでも、その価値はあるのです。
なぜなら、それこそが豊かであるということだから。
そして、
皮革とサテンとヴェルヴェットとウールギャバジンの黒の見え方の違いがわかる、
豊かな感性の持ち主こそが、おしゃれな人であるからです。


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2015年4月15日水曜日

服が人を美しく見せるわけではない

ある服を着ることで、
その人が美しくなるのかという疑問が私たちの心に湧きあがる前に、
それは、美しくなるに決まっているのだと、
いつでも、どこでも、繰り返し言われたり、
書かれたりしてきました。
しかし、それは本当なのでしょうか。

ここでマルグリット・デュラスの「愛人(L'AMANT)」の一節を引用します。
「女を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではない、
念入りなお化粧でもなく、高価な香油でもなく、
珍しく高価な装飾具でもないということを、
わたしは知っている。」
このように小説家は断言します。

私たちは何となく、
その美しい服さえ着れば美しくなれる、
その高価な装身具をつけさえすれば美しくなれると、
信じ込まされてきました。
そう信じ込まされてきたからこそ、
今まで多くの投資を、
忘れてしまいたいほどの過ちを、
クローゼットの中の隅っこに隠したまま、
長い年月を過ごしてきました。
けれども、服は私たちの下僕であるべきで、
主人であってはいけません。
下僕のいかんにより左右される美しさを、
私たちは本当に欲していたのでしょうか。

その言葉は誰によって発せられたのか、
私たちは注意して調べる必要があります。

ティム・ガンという大学教授が、
女性に必要な10のアイテムを推進しています。
白いシャツ、タイトスカートなどを、
女性は持っているべきであると言います。
しかし、ティム・ガンとはどこで何を教えている教授なのでしょうか?
彼は、FIT、つまりニューヨークのファッション工科大学の教授です。
アートの学校ではありません。
工科大学、つまりテクノロジーのための学校です。
彼は、量産が前提の服作りの学校の先生なのです。
ですから、すべての人に同じものを持ってほしい、
そう考えているのです。
なぜなら、量産こそが彼らのねらいだからです。
これがもし、パリのオートクチュールの服作りのための学校の教授だったら、
このようなことは言わないでしょう。

確かに美しい服は存在します。
アートとクラフトが融合し、
100年、博物館に飾ってもおかしくないデザインがなされた美しい服は、
多くはありませんが、
確かに存在します。

一方、ひとの美しさとは、
着るものに左右されるものではありません。
肉体の美しさもさることながら、
しぐさの美しさ、
心の美しさ、
言葉の美しさなど、
どんなものを着ていても、十分に察知できるものです。
もしそれが着るものによって左右されるのならば、
その美しさは空虚で、偽りのものでしょう。

服とひとは対等ではありません。
あくまでひとが主で、服が従です。
私たちは、決して服のいいなりになど、なってはいけないのです。

どんなに完成度の高い美しい服を着たところで、
ひととしての美しさがないのならば、
それはショーウィンドウのマネキンと同じです。
もしそのひとの着ている服だけが印象に残ったのなら、
そのひとはたいして美しくはないのです。

ひとと服の主従関係をはっきりさせ、
服に従う人生から、早く抜け出さなければなりません。
その服を着れば美しくなりますよとささやいたそのつぶやきが、
誰から発せられたのか、
見破らなくてはなりません。
そして、まず最初に私たちが本当にすべきなのは服への投資などではなく、
ひととしての美しさを養成したり、
栄養を与えるための投資です。
それが完成の域に近づいたとき、
ほんとうに美しい服は、
あなたの忠実な下僕となって、
あなたの美しさをより輝かせるでしょう。

その時期がいつ訪れるのかは、
ひとによってさまざまです。
本物のデザイナーは、
そのときに貢献する服を作っています。
私たちはそれを選べばいいだけです。

運動したり、
読書したり、
楽器の練習をしたり、
料理をしたり、
どんなひとともコミュニケーションできたり、
ひとつの技術を磨いたり、
美にふれること、
それらが私たちを美しくさせます。
美しい人にこそ、美しい服がふさわしいのです。

小説家が知っていたように、
女性を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではないと、
多くの人がうすうす気づいていたことでしょう。
今はそれを確信に変えて、
やるべきことの順番の見直しをしてください。
そのときまで美しい服たちは、
あなたのことを待ち続けています。

文中引用:「愛人」 マルグリット・デュラス 清水徹訳
河出書房新社 1985年

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2015年4月1日水曜日

ファッションとは変化

ファッションとは変化です。
変化が常態です。
ですから、変化が止まったら、
それはすなわちファッションの死を意味します。

人もそれぞれ変化していきます。
人の変化は成長と呼ばれます。
年齢が若ければ若いほど、
1年の成長の幅は大きくなります。
成長の速度と距離は、人によってそれぞれです。
同じように、何歳まで成長し続けるのかも、
人によって違います。
多くの人は、年齢が上がれば上がるほど、
その成長の幅を縮めていきます。

時代に即して変化していくファッション、
年齢とともに変化していく人、
その交点にその人のワードローブがあります。
成長の幅が大きい人の場合は、
ワードローブに流行が大きく反映され、
成長が止まったならば、
ワードローブが流行に影響される割合はぐっと少なくなります。

シルエット、色、素材にも流行があり、
それは少しずつ変化していきます。
プルミエール・ヴィジョンのブックを見るまでもなく、
60年代の色と、2000年代の色と、2010年代の色は違います。
同じように人も、年齢とともに好きなシルエット、色、素材が変わっていきます。
そして、そこへ変化が遅い、物質としてのでき上がった服が入り込みます。

物質としての服の変化は、いわゆる経年による変化、
また洗濯による劣化、着用による摩耗や着用回数は、
もともとの素材の性質によって異なります。
当たり前のことですが、
着用回数が多いものは、劣化のスピードも早くなります。

活発な子どもは成長の度合いが大きく、
身体の変化が激しいので、その成長にふさわしく、
古いワードローブから脱皮していきます。

次にやってくる若い時代は、
精神的な成長の度合いが著しく、
それに伴いワードローブを変化させます。
誰でも二十歳のころの服を、
30歳になったとき、同じように着たい気持ちにはなりません。

若い時代が過ぎ、大人として成熟していく段階で、
成長の速度の個人差が大きくなります。
そこで成長をとめた人のワードローブは、
進化することを停止させます。
もはや服を着ることは生活に必要な行為であるだけであって、
ファッションと無縁になっていきます。
それは別に悪いことではありません。
生き方の1つです。
その生き方を誰かに否定される筋合いはありません。

しかし、もしファッションを目指すなら、
変化を受け入れなければなりません。
変化を拒むもの、恐れるものは、
ファッショナブルにはなれません。

時代が変わっていくならば、
それにあわせて進化していく。
若い肉体にもう戻れないとしても、
鍛えて維持をする。
常に精神を若々しく保ち、
過去に執着しない。
これらは、身体も心も、
そして物質的にも身軽でなければできないことです。
重くなりすぎたら、素早く変化に対応することは、不可能です。

物質的な服の劣化を見極めながら、
あくまで身軽に、
一度決めたことを葬り去る勇気と、
新しいことにチャレンジする進取の精神とを持ち続けるならば、
いつでもファッショナブルでいることは可能です。
それは実際の肉体年齢の問題ではありません。

ファッションとは変化です。
ですから、ファッショナブルな人とは、
変化に対応し、
進化し続ける人です。
他人によるレッテル貼りや、意味づけ、決めつけなどの、
多くの制止を振り払って、
走り続ける人こそが、
永遠におしゃれな人です。


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2015年3月15日日曜日

ジャンプスーツ、またはつながっているということ

ジャンプスーツとは通常、
トップスと、それに伴うパンツのボトムがつながった状態のものを呼びます。
トップスがスカートとつながっていれば、
それはワンピースやドレスですが、
パンツとつながるとジャンプスーツ、オール・イン・ワンなどと呼ばれることになります。

ジャンプスーツがここへきて注目されていますが、
何もこれは新しい形というわけではありません。
作業着としての「つなぎ」や、
赤ちゃんのロンパースなど、
形としては以前からありました。
ただそれがモードに昇華されるのには、
多少の時間がかかりました。
そして今やっとそのときが来ました。

特徴を一言でいえば、つながっている、ということです。
西洋の衣服において、この「つながっている」ことは、しばしば重要視されます。

西洋の女性の衣服の歴史は、
布に穴をあけてそこに頭を入れただけの貫頭衣から、
ギリシャやローマ時代の生地を身体にまきつける時代を経て、
常にトップスとボトムスがつながったドレスという形で発展してきました。
やっとジャケットとスカートという形が見られるようになったのは、
イギリスのエドワード時代あたりではないかと思われます。
(ここは、はっきりした資料が見つけられませんでしたので、
間違っているかもしれません)
しかし、いくらジャケットとスカートに分かれたとはいえ、
それはやはりひと続きのつながりがあるもの、
つまり上下が同じ生地によって作られるスーツでした。
トップスとボトムスに全く違うものをあわせるようになったのは、
せいぜい100年あたりの、ごく最近のことです。
上と下はつながっている、
または分かれていたとしても同じ生地で作られるべきものというのが、
西洋の衣服の暗黙のルールです。

例えば、日本の着物は上下がつながっている、いわばドレスです。
それを上下、別々にすることもできますが、
そこで上と下、違う生地を持ってきたとしたら、
それは既に着物ではなくなるでしょう。
上と下を別にしてしまったら、
着物の体をなさなくなります。
着物にとって、つながっているということは重要です。
それと同じことが、西洋の衣服についても言えます。

西洋の衣服においての、このつながっていることの重要性は、
現代のスタイルでも多く見られます。
格が高く、オーソドックスなスタイルは今でもなお、
ドレス、またはスーツです。

その点から考えると、
ジャンプスーツは、それが連想させるものが作業着としての「つなぎ」であったとしても、
「つながっている」という条件を満たしているからには、
格が高いものの仲間であると考えられます。
素材、パターンを洗練させたならば、
それはドレスに匹敵するほどのスタイルとして認められるでしょう。

ジャンプスーツはドレスより活動的であるにもかかわらず、
つながっているという条件は満たしているので、
ドレスと同じだけの格があり、
十分におしゃれなアイテムです。
同じ素材のジャケットを上から羽織るならば、
そのまま正式な場へ出席できます。
これを利用しない手はありません。

ただし、誰もが思い浮かぶジャンプスーツの欠点があります。
それはトイレでの問題です。
トイレに行って、あれをいちいち上から脱ぐのかと考えると、
着ていく場所は選ばざるを得ません。
その点さえ解消できるならば、
ジャンプスーツはこれからの時代、より利用されるようになるでしょう。

暗黙のルールである、「つながっている」ことは、
いまだ至るところで散見されます。
例えば、帽子とコート、
コートとバッグ、
バッグと靴、
コートと靴など、
同じ素材、同じ柄を持ってくるテクニックは、
ハイブランドでよく見られます。
それらいちいち、はい、これは同じ素材で作られていますよなどと、
説明されることはありませんが、
そうすることによって、彼らは自分たちのスタイルの格を上げるのです。

誰も言葉にはしないけれども、
ひそかに守り続けられているルール。
これを取り入れるだけで、
平凡なスタイルが、非凡なものになります。

ジャンプスーツはそれの1つの例に過ぎません。
それに気がついたなら、
私たちは自分自身で、「つながっている」ことを作ればいいのです。
帽子と靴でも、
コートと帽子でも、
靴とストールでも、
つながりを取り入れます。
そのとき、今まで無自覚だったものが、
初めて意味を持ち始めます。
意味がないと思っていたものは、
実は意味があったと知ります。

おしゃれであるということは、
無自覚でなされる選択からの卒業です。
ひとつひとつの選択に意味を与えること。
そこに必要なのは意図することです。
意図があるということが、
おしゃれについて考えている人と、
そうでない人との違いなのです。

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2015年3月1日日曜日

70年代リバイバル

ファッションの流行は、
周期的にどこかの時代のスタイルを再び蘇らせ、
進化させることにより、
らせん状に発展していきます。
リバイバルはそのほとんどが、
多くの人が忘れたころにやってきます。
2010年代に1970年代がリバイバルされるということは、
およそ40年ぶりということでしょうか。
多くの人がそのスタイルを忘却するのに必要な時間は、
十分にありました。

70年代の特徴はいくつかあります。
若者の普段着であったデニムを使ったアイテムの一般化、
作業着のモードへの昇華、
ヒッピーやボヘミアンスタイル、
そしてエスニックです。
そのどれもがいわゆる「中心」から外れた周縁、または辺境の存在。
社会的に認められていなかった、といってもそれは欧米での話ですが、
若者、
労働者、現在はロマと呼ばれるジプシー、
社会の規範へ反抗するヒッピー、
欧米以外の文化圏の人々などです。

ファッションは、その中心と周辺を入れ替えたかのように、
外側からの影響で内部が埋め尽くされたのでした。
それまで価値を認められていなかったもの、
切り捨てられていたものの価値が、一気に上がったのです。

そうなる前には、例えば1968年のパリでの五月革命のように、
学生運動が世界中に広がり、
新しい世代が新しい価値観を持ってあらわれてきたという事実がありました。
常に新しい流れを取り入れるファッションが、
このような社会的な流れに影響を受けるのは当然です。

また、1970年には日本の高田賢三がパリにショップをオープンし、
欧米以外の文化圏の影響を受けた、大胆な色遣い、柄と柄の組み合わせなど、
若く、しかも「欧米ではない」という価値観を示しました。
(注:この時代、東欧の文化も、
イギリス、フランスなど西ヨーロッパの国から見ると、
異国情緒のある文化でした。ボヘミアンスタイルなどは、東欧の影響を受けたスタイルです)

これら、「中心」以外の存在のパワーが中心を凌駕した結果生まれたのが
70年代のスタイルです。
スタイルの特徴としては、
ベルボトムやパンタロンなど、裾広がりのパンツ、
素材としてスエード、ヴェルヴェット、デニム、
細部の装飾としてフリンジ、フリル、
ロングスカート、
パッチワーク、
フリンジ、
刺繍、
ひもやマクラメ使い、
月の女神ダイアナ風サンダル、
などです。

2010年代、70年代がリバイバルされていますが、
もちろんこれは1970年代のものそのままではなく、
アップデートされています。
パンタロンのシルエット、
サボという原型、
スエードという素材はそのままに、
それぞれがかつてのそれより、
より手の込んだ、より洗練された、
若者ではなく大人にふさわしいものになっています。
ただ労働者のジーンズを着るのでも、
ただ東欧にいた女性たちがはいていた、
あのロングスカートを借りてきてはくのではなく、
それぞれの足りないところを補い、
モードと呼ぶのにふさわしい豪華な素材、
繊細な手仕事を施すことにより、
雰囲気は70年代のままに、
全くの別物に仕上がりました。

では、なぜ今70年代なのでしょうか。
若者、そして異質な文化という性質を、
なぜ今の時代、再現しなければならないのでしょうか。
それは今の時代の流れの終わりが見え始めたからではないかと、
私は考えます。

文化の黄昏の時代、
発展が行き止まり、これ以上の先が見えなくなったとき、
私たちに必要なのは「若さ」です。
それは年齢の若さではなく、
精神の若さ。
新しいことにチャレンジし、
どんな変化にも対応できるしなやかさ、
そして何よりも未来を夢見る力、
そんな「若さ」の持つ力を、
私たちは再び欲します。

そして異質な文化を取り入れるのは、
あたかも輸血するかのように、
違う血を入れることによって、
自分たちの文化を若返らせようとする、
無意識のあらわれです。

では、2010年代を生きる大人の私たちは、
この70年代リバイバルをどのように取り入れたらいいのでしょうか。
まずは、大人にふさわしいものを選ぶこと。
二十歳前後の子たちと同じような、
単純なそのものの70年代スタイルはあえて避け、
生地なり、細部なりがアップデートされたものを選びます。
古着屋で手に入れたような、本物の70年代のものよりも、
今にふさわしいスタイルに改善され、
そこはかとなく70年代を感じるぐらいのものにおさえたほうが、
現在持っているワードローブに取り入れやすいですし、
何より違和感なく着ることができると思います。

そして最も大事なのは、精神的な若さです。
かたくなで、変化を嫌い、
好奇心のかけらもなく、
何事にもチャレンジしない態度は、
決して若いとは言えません。
新しいものを取り入れ、
知らないことを知ろうとし、
上からものを言うのではなく、
何かを学ぼうとする姿勢があってこそ、
70年代スタイルは生きてきます。

さらに、異質な文化への好奇心と理解。
異質なものを排除する心は、
70年代の若者たちが最も嫌ったものでしょう。
もし彼らが「日本」という異質な文化を持つ国から来たものを排除したならば、
海を渡った日本のケンゾーはパリで成功しなかったはず。
パリが異質な文化を背景に持つケンゾーを受け入れたように、
ファッションを愛する人々は、
異質な文化にみずから近付き、
理解し、受け入れなければなりません。
それは、ファッションの1つのエレメントです。

ファッションはいつの時代も、
異質な文化を取り入れて発展してきました。
それは昔も今も、そしてこれからも変わりありません。
70年代スタイルとは、いわばそのシンボル的なスタイルです。

おしゃれであるとは、
精神が若いこと、
そして、異なるものや人への好奇心を持ち続けることです。
その2つがあるならば、
70年代スタイルを着こなすのは、
いとも簡単であるはずに違いありません。




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2015年2月23日月曜日

お知らせ

今週のブログアップはお休みいたします。
次回は3月1日を予定しております。

また、3月からはブログアップを
毎月1日、15日の、月2回に変更する予定です。

以上、よろしくお願いいたします。