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2015年1月26日月曜日

自分で作るセットアップ

自分の持っているワードローブのアイテムを使って、
素敵なコーディネイトができないというお悩みを持っていらっしゃる方が
たくさんいらっしゃいます。
こんなにたくさんあるのに、
雑誌だって、いつも見ているのに、
高いお洋服を買ったのに、
いざ、組み合わせようとすると、
どうしたらいいか全くわからない。

どうしたらいいか全くわからないだけでなく、
その原因もわからない。
原因がわからないので、その解決方法もわからない。
苦肉の策として選ぶのは、
そして、頭の中でひらめくのは、
新しい服を買おうというアイデア。

しかし、新しいその1枚が足されたからといって、
家に帰って、コーディネイトできないという現実が変わるわけでもなく、
そのまま、いつものお気に入りの組み合わせで、
特別な外出の日は出ていく、
その繰り返し。

お気に入りの組み合わせはとても気に入っているので、
そればかり着ている間に、
どうにもこうにも組み合わせることができないスカートやら、ブラウスやらは、
クローゼットの脇のほうへ寄せていく。
けれども、気づいたら、
脇へ寄せたつもりの、
そのどうしたいいかわからないスカートやら、ジャケットやら、パンツやらが、
クローゼットのハンガーラックの真ん中のラインを過ぎている。
つまり、半分以上は、どうしたらいいかわからない、
ドレスやら、コートやら、セーターになっている。

あんまり着ていないから、傷んでないし、捨てるに捨てられないし、
誰かがもらってくれそうにもないし、
リサイクルショップへ持っていっても、100円とか、200円とか、言われちゃうし、
そうだわ、見なかったことにしようとひそかに決意し、
クローゼットから取りだして、
押入れの奥へ押し込んだところで、
持っているということには変わりなく、
そして何より、
持っているアイテムでコーディネイトできないという問題は全く手つかずのまま。

ではどうしたらいいか。

ほとんどの人がコーディネイトできないその理由は何かというと、
色の問題です。
正直な話、色音痴の人が多いです。
これとこれは合わないと言っても、
この青と、その青がどう違うのか、識別できない人が多いのです。
もっとも簡単に識別できる黒と白を除いては、
その見え方についての感受性を育ててこなかった結果、
色の識別ができなくなったのだろうと推測できます。
服の場合、これらの色が生地のテクスチャーの上にのるわけですから、
もっと複雑になります。
光の反射の具合によって、同じ黒の見え方が違ってきますが、
それも、よくわからないと言う人が多いです。

服を買った期間が20年間、30年間ではなく、
例えば、10年以内のものばかりだとしたら、
それほどシルエットが時代遅れというものはありません。
確かに、今、80年代に買ったコートをそのまま着たら、
それは「変なコーディネイト」になるかもしれませんが、
そういう人はあまりいません。

もちろん、シルエットは流行を見る上で重要ですが、
ベーシックなものをメインに選んでいる限り、
「そのシルエットの組み合わせがおかしい」という失敗パターンは、
少数です。
それより何よりも、失敗しているのが色なのです。

解決方法は、自分の着るメインの色を決めることです。
そして、決めるだけではなく、
その選んだ1色で全身がコーディネイトできるように、
つまり、ネイビーならネイビー、グレーならグレーの1色でコーディネイトが完成できるように、
アイテムをそろえることです。
ネイビーのパンツ、スカート、ジャケット、ニット、シャツ、コートまで、
ひとそろえ持っていれば、それを土台として、ぶれない色のコーディネイトができ上がります。

例をあげます。
ネイビーを自分の基本の色に選んだとします。
その上で、
ジーンズ、ジャケット、Tシャツ、帽子、スカーフ、スニーカー、スカートをそろえます。
中のTシャツを白にかえて、白いバッグを持てば、それだけでさわやかなコーディネイトになります。
また、そこに1点、赤い腕時計でも投入すれば、
トリコロールのコーディネイトになります。

グレーでも同じことができます。
グレーの場合、
白から黒までのグラデーションのあいだの色合いのアイテムがいろいろ売っていますので、
その色の幅までOKとして、
コート、パンツ、ニット、ストール、バッグ、ブーツをそろえます。
グレーで全部そろえると、それは都会的なコーディネイトです。
コンクリートとガラスの建築群によく似合います。
そして、例えばその中のニットを華やかな黄色やベビーピンクに変えれば、
都会的な冷たい感じを和らげることもできますし、
春の気分を先取りすることもできます。

自分のワードローブの中に、
自分の選んだ色の1色で上から下まですべてコーディネイトできるセットを持っていれば、
色の組み合わせで迷ったり、失敗したりすることはありません。
ただし、ベージュやカーキなど、売っているものの色合いが微妙に違うものは注意が必要です。
同じベージュでそろえるのはかなり難しいです。
けれども、できないことはありません。

これは、自分でセットアップを作るという考え方です。
売っているセットアップは、せいぜいジャケットとスカート、
または半袖ニットと長袖ニットの組み合わせ。
それだけではなく、上から下まで、靴、バッグ、小物まで含めて、
ひとそろえとしてセットアップ、つまり、組み立てておけば、
微細な色の違いが識別できなくても、
色で失敗することはなくなります。

本当は、それぞれが色についての鋭い感性を養えばいいと思います。
絵画を見たり、植物を観察したり、
生地屋へ行って、素材をひとつひとつ見て回ったり、
その一連の行為が色に対する感性を養います。
しかしそうはいっても、感性を養うには時間がかかりますし、
明日も服を着なければなりません。

色について、一番怠惰になりたいならば、
いつも黒だけ選べばいい。
しかし、それではいつまでたっても、色を識別する眼は育ちません。
想像してみてください。
江戸時代、女性の着物がすべて真っ黒だったら、それはどんな景色でしょうか?
豊富な色彩は豊かさの1つの印です。

まずはできるところから、
できる方法で。
1色を決めて、それで自分なりのセットアップを作る方法は、
誰もができますし、
お金もかかりません。
それは、とりあえずのところ、
コーディネイトでの色の失敗を防ぎ、
服選びの時間を短縮し、
無駄な、着もしない服を減らすことに貢献します。
そして、余裕ができたなら、
ぜひとも新しい色にチャレンジしてみましょう。
そのときはきっと、
グレーが決して1色ではないということに気づくでしょう。
そして、あのブルーとこのブルーがどう違うか、
識別ができるようになっているでしょう。


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★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。

2015年1月19日月曜日

ファッションにおける客観的な視点

ファッションに限らずとも、客観的な視点を身につけることは重要です。
すべての自分の表現、言葉、作品において、
出来得る限り客観的でいれば、
問題は最小限に抑えられます。

ファッションにおいて、多くの人にとっての客観的視点とは、
鏡の中の自分の像でしょう。
小さいものでは手鏡の、
化粧室で上半身の、
自宅やショップで全身が映る鏡、
そしてイレギュラーなものとして、
街で通り過ぎざまに映るウィンドウ。
そのどれもに自分の姿を見ることができます。
しかし、客観的な視点とは、それでは足りないものです。

必要なのはもっと遠く、もしくは高くから見る視点。
たとえて言うならば、芝居の演出家や、映画の監督の視点です。
芝居の場合なら、劇場の一番後ろの席から、
映画であるなら、映画館のスクリーンが全体を見渡せる席から見ることで、
彼らは舞台上やスクリーンの中の役者とは一段違うところから、
全体を見ます。
そして、それができなければ、演出家や映画監督は務まりません。

その視点は、
観客の視点よりも、より遠く、高いものです。
観客と言えども、やはり近すぎます。
近ければ近いほど、全体を見ることはできず、
その結果、導き出される意見はばらばらです。

もし私たちが、自分の服装について、
ごく近くの人たちに意見を聞いたなら、
すべて違うことを言われるでしょう。
ある人からよく見えるところは、違う人にとってはよく見えないかもしれないし、
それぞれが、細部のみを見ているかもしれません。
他人であるからといって、それが客観的な視点とは限らないのです。

分かりやすいのは映画監督の視点なので、
映画を例にして説明します。
映画には、全体のテーマ、そしてストーリーがまずあります。
それを表現するためにキャストが決まり、各シーンのセットやロケ地が決定されます。
主人公は顔、上半身、全身、頭上から、足元から、
俯瞰的に、群衆の一部としてなど、
さまざまな視点から撮影されます。
監督が留意しなければならないのは、
背景、照明、シーンの登場人物、季節、時間、場所です。
それをすべて考慮した上で、登場人物の衣装もメイクも決まります。
同時に、その登場人物を引きで見るのか、寄って見るのかによっても、
衣装、メイク、髪形が変わってくるでしょう。
テーマを表現するためには、それらすべてが調和していなければなりません。
どこかひとつ飛びぬけても、どこかひとつ抜けていてもだめです。

これと同じことが、ファッションにおける客観的な視点にも要求されます。
いわゆる「痛い」スタイルとは、
この何かが抜け落ちている視点の持ち主であることが露呈した結果です。
その人は、何かについて全く見ることができない人物であるということです。
これはよく言われるTPOでも足りません。
見るべきものは、Time、 Place、 Occasionでは足りません。
なぜならそこには最も大切な意図が抜けています。

客観的な視点は、自分がどう見せたいかという意図を表現するためにこそ、
必要なものです。
映画だったらテーマです。
この場所、この時間、このメンバー、この照明、
このお店、この季節、
この劇場で、
目の前にある1杯のコーヒーを前にして、
何を最も意図するのか。
恋愛映画なのか、ファンタジーなのかによっても違うでしょう。
一番重要なのは、何を一番表現したいかです。
それがもし、「おしゃれでモードな好きな私」だったら、
適度に流行を取り入れた、モードの服を選べばいいし、
「流行には左右されない、オーセンティックな私」だったら、
余り目立たないけれど、上質な本物だけを身につけたらいい。
逆に、ライブハウスで新人バンドのライブを見に行く、
「新しい音楽を楽しむ好奇心に満ちたおしゃれな私」だったら、
ダメージ・ジーンズにスタッズのついたブーツでもはけばいいのです。

映画監督のような客観的な視点、
そこに込めた意図。
この2つがあれば、
誰が何と思おうと、気にすることはありません。
観客はすべて違う意見を持ちます。
そしてこの人生の物語の主人公は自分です。

どんなに気をつけても、
すべての人を満足させるのは不可能です。
受け取った相手がどう思うか、感じるか、コントロールすることはできません。
相手は不満に思うかもしれないし、不謹慎に感じるかもしれない。
しかし、それはこちらの手から離れたところの問題です。
ファッションの表現は自由です。
それで誰かが傷つくことは、ほとんどありません。
(もちろん宗教的な理由でルールがある国はあります。それは守らなくてはなりません)

主人公には、そのシーンで一番映えるような衣装を着せてあげましょう。
映画監督の視点で、シーンをチェックしましょう。
誰かが何か言ったところで、
それを気にする必要も、ましてや反論する必要もありません。
この世界でその視点を提供できるのは、
すべての自分の行動を把握している、
神様以外には、
主人公である自分自身だけですから。

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2015年1月12日月曜日

本物だけを見よ、見続けよ


残念ながら、この世には多くのまがい物が存在しています。
しかも、そのまがい物はもう既に、本物を凌駕して、駆逐する勢いです。
私たちは偽物をつかまされ、そのたびに、
えも言えぬ不快な感情を経験します。
続く不満と満たされない飢餓感の中で、
新しいものを次々と求めますが、
なかなか心が満たされることはありません。

心が満たされることができなくとも、
私たちは毎日、服を着てどこかへ出かけます。
心の充足とは別に、服を着ることは必要だからです。
とりあえず、体を守ること、
私たちは結局、そのために服を着ます。

こんなにも多くの服が存在するのに、
そして、こんなにも多くの服を手に入れたのに、
それでもまだ満たされないのはなぜでしょう?
おしゃれに見せたいのは自分のためなのか、
他人のためなのか、
そのどちらも達成されなければ、
永遠に心満たされることはないのか。
ならば、その道は余りに遠いです。


今のように簡単に、しかも安価で服が手に入れられるようになったのは、
つい最近のことです。
私たちは、モノがない欠乏からは解放されました。
それなのに、かつてあったであろう、着ることに対する満足は得られません。
時間をかけて作り上げた、
あの手の込んだ刺繍を施した、
きらびやかな衣装を身につけている、
少数民族の方たちが浮かべるあの満ち足りた表情を、
私たちは服を通して作ることができません。

まがい物は、しょせんまがい物。
暑さ寒さは防げるものの、
心の満足を与えてくれるものではありません。
私たちの何十分の一しか衣装を持っていないであろう、
残された少数民族の人たちのような、
本物の衣服を、
私たちは手放しました。
合理性と引き換えに。
市場主義経済のアンフェアな手法を使って。

本物をまとわない限り、
私たちの心は満足しません。
頭が考える価値や消費される情報など、それを満たすことはできません。
どんなにたくさんの衣服を集めても、
その10枚は、
祝いの儀式のために一針一針、丁寧に心をこめて刺繍した、
あのドレスにはかなわないのです。
私たちが本当に必要としているのは、
そんな本物のドレスです。

しかし、多くの本質を伴った衣服は駆逐されました。
滅多に出会えないか、
または高額すぎて手の届かないものになりました。
大好きで、
何回も着て、
すり切れても捨てるに捨てられない、
そんな服は、
どんどん少なくなってきています。
それでもやはり、
この果てしない飢餓感から抜け出すためには、
そんな服が必要です。
それがなければ、この病いは治りません。

何としてでも、本物の服を手に入れなければなりません。
それはごく数枚でよいのです。
けれども、多くの人は、もはやそれを見つけることすら不可能な状態です。
本物など、見たことも、さわったことも、袖を通したこともないのですから、
当然と言えば当然です。

けれども、ごくたまに本物はあらわれます。
美術館で、展覧会で、
ヴィンテージショップで、
高貴な人のワードローブの中で、
優れたコレクションで。
そんな希少な機会があったら、
ぜひとも見に行く必要があります。
そして、本物だけを見続けなければなりません。
それが所有できないとしても、
ただただ見続ける、その行為のみによって、
本物に出会えます。
玉石混淆の中の宝を見分けるその目は、
そうすることで養われます。
実際に本物を手に入れるのはそのあとです。
よく見えないその目と、頭の計算で選んだものは、
それがたとえどんなデータを持っていたとしても、
本物とは限りません。
何枚持っても満足できないのなら、
それはやはり本物ではなかったのです。

この世に出会うべき本物は、
そう多くはありません。
また、誰かにとっての本物と、
自分にとっての本物も違います。
それが1つでも手に入ったならば、
いつでも何か食べていなければ気が済まないような、
絶え間ない飢餓感から解放されるでしょう。
そして、服なんて、そんなにたくさんいらなかったのだと気づくでしょう。

そのためにも今すぐ決意してください。
本物だけを見ると、
見続けると。
そうすれば、いつか必ず、本物は手に入ります。

☆写真:2014年のエスプリ・ディオール・東京展より。まさに本物の衣服。入場料無料ですべての人に開かれた、本物を見る機会がたまにあります。

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2014年12月29日月曜日

今年もありがとうございました。

本日のブログアップは本日で終了です。
1週お休みして、
次回アップは2015年1月12日になります。
ファッションに関する小ネタは日々雑記ブログ「麻とヴェルヴェット」へ書きますので、
何か読みたい方はそちらをどうぞ。

さて、もう随分たくさんのことを書いたから、ネタはない、ないと言いながら、
また1年やってこれました。
正直、こちらのブログ、何の反応もないので、
ときたまもうやめちゃおうかなと思います。
もうほとんど私の備忘録?
もしくは私たのための私の読みモノ?みたいな感じです。
なので、どこまで書けるのか、自分への挑戦の意味で来年も続けるつもりですが、
いつまで続けられるかはわかりません。

そんな感じですが、
来年もよろしくお願いいたします。

流行遅れにならないためには

ファッションには流行というものがあって、
それは否定のしようのない事実です。
蛇行する川のように、あるときはゆっくりまっすぐに、
あるときは急なカーブを激しく流れるように、
多くの支流を抱えながら、
ひとつの方向へ向かっていきます。

私たち自身も、生まれてから死ぬまでの時間、それぞれの流れの中に生きています。
小さいときは成長が早く、
多くの着られなくなった衣類を脱ぎすてて、
大人になれば、
自分のスタイルの構築のために、流行に翻弄されながらも、
さまざまなスタイルに挑戦し、
年齢を重ねたら、何となく自分の趣味嗜好の方向性が固まって、
自分自身の新陳代謝ではなく、
衣類そのものの寿命によって、新しいものを取り入れるようになります。
全く何も買わないでいるということは、
衣服がモノであり、永遠には存在しえないという性質上、不可能です。
私たちは、何らかの形で流行と付き合うことになります。

しかし、ファッションの流れと自分自身の人生の流れが一致することはありません。
ファッションの流れが急なとき、私たちは、ゆっくりした流れの中にあるかもしれません。
それはお互いに違う道筋なので仕方のないことです。
そのずれが、いわゆる流行遅れです。
自分自身の変化、
ファッションの流れ、
衣服や小物のモノとしての寿命、この三者がてんでばらばらに存在するため、
ときにそれは大きなずれとなり、
時代に遅れたようなスタイルになることがあります。
これは身体の成長の早い子ども時代や、
生活スタイルが激しく変化する20代では、まず起こりません。
身体も生活スタイルも大きな変化がなくなり、
モノとしての寿命だけが頼りになるとき、
そして何より、精神が微妙に時代とずれてしまったとき、
その人の服装は流行遅れとなります。

モノの寿命より、ファッションの流行の変化が激しく短いのが現代です。
多くの人が、物理的に着られなくなるから服を捨てるのではなく、
着たくなくなったから、
あるいは流行遅れでみっともないからという理由で服を捨てます。
そして、そのことに疑問を持たないような社会の仕組みがあります。
流行をとるか、エコロジーをとるか、
私たちは今、選択を迫られています。

一番よいのは、流行遅れにならず、
捨てるときは、モノとしての寿命が終わったときのみという状態になることです。
そして、万が一、それができないとしても、
リサイクルというサイクルにうまく入れるように手放すことです。
そのために、成熟した大人ができることはどんなことでしょうか。

まずできるのは、モノとしての寿命のサイクルをアイテムごとに見極めること。
Tシャツやカットソーなど、洗濯回数の多いものはモノとして長持ちしませんが、
冬場のウールのジャケットやコートなどは長持ちします。
当たり前のことですが、長持ちするものは、ベーシックで長く着られるデザインのものを選び、
逆に長持ちしないもので流行を取り入れます。
そうすれば、毎年何かほんの少しでも、いわゆる流行っているものを取り入れることが可能です。
その他、長持ちしないものとしては布製のスニーカーや白シャツ、靴下などもそうです。
また、長持ちするものはマフラーやスカーフ、ジュエリーなど、アクセサリーや小物類も、
案外、傷むということがありません。
ほんの少しでも流行を取り入れることは、
気分転換にもなりますし、時代を感じることにもつながります。
そしてそれはまた、
完成していない自分の補完品としての機能を持つことにもなります。

しかし、流行遅れに見えない、かつ着られるのに捨てるものを大量に出さない、
もっとも重要なポイントは、
流行を越えた自分のスタイルを確立することです。
シャネルも言っているように、ファッション、つまり流行はすたれるものです。
流行というシステムから抜け出し、
自分のスタイルを確立したならば、
もう流行遅れとは無縁です。
流行っているから買ったものではなく、
自分のスタイルの確立のためにそろえたアイテムは、
何年たっても色あせることがありません。

流行というシステムの中で近視眼的にものを見るのではなく、
ひとつ上の階層から俯瞰するように、
自分が何を好きで、どんなものを着てきたか、振り返り、
その上で服を選んでいけば、スタイルは確立されます。
それは年齢の問題ではありません。
どれだけ工夫してきたか、
どれだけ計算してきたか、
どれだけ練習してきたか、
どれだけ考えてきたか、
その総量の差です。
何歳になっても、流行より下のレベルで、それに振り回される人たちはたくさんいます。
振り回されないためには、1つ上の層へ上がらないといけないのに、
それには気づかず、そして気づこうともしません。
それは囚われた状態です。

囚われから脱出するためには、眠りから目覚め、
無意識に反応するままの自分を客観視し、
システムから抜け出して、高いところからの視点を持つことです。
流行という川の流れでおぼれ続けるのではなく、
そこから抜け出し、
高い空から、流れ全体を見ることができれば、
私たちはそこから抜け出すことができます。
そして、そのときに気づくでしょう。
流行遅れになったのは、流行に乗ったためであった、ということに。

20年前の写真を見てください。
もっとも古臭く感じるのは、そのときの流行りの服、髪形、メイクでかためたスタイルの人でしょう。
けれども、今でも古びることなく、魅力的な人は、
流行とは適度な距離をとった、その人独自のスタイルを持った人ではないでしょうか。

流行遅れにはならず、
永遠を見つけたいなら、
流れから抜け出しましょう。
溺れていないで、
空を飛びましょう。

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2014年12月22日月曜日

タックパンツ、ノータックパンツ


ズボンを女性がはくようになったのは20世紀後半からと言われています。
それまでは、あくまで女性用のズボンというものはなく、
男性用のものを借用する形での着用でした。
しかし、女性が男性と同じような活動、
それは例えば多くの労働ですが、
をするようになって、女性のあいだでもズボンの着用が広がり、
それを決定的にしたのは第二次世界大戦でした。
なぜならその期間、女性は男性と同じような労働に従事したからです。

その歴史からも推測されるように、
当初のズボン、今で言うところのパンツは、
女性にとって、オーバーサイズであり、
ダボダボしたものをひもなり、ベルトなりでウエストを縛ることによって、
初めて着用可能となるものでした。
基本的にパンツとは、大き目のサイズのものを自分に引き寄せて着るものであり、
ウエストの細い女性がはくと、
ウエストにはギャザーやタックが自然とあらわれました。

女性と男性の体型の違いはいろいろありますが、
その中でも大きな点は、男性にはない曲線を女性が持つということでしょう。
バストとウエスト、ウエストとヒップの大きな差というものは、
男性にはないものです。
そのため、平面である生地を立体にうつすとき、
その「差」の処理として、ダーツ、タック、ギャザーが用いられます。
ウエストとヒップの大きな差は、
洋服のボトムスを作る上でのもっとも重要なポイントであり、
服の美しさは、その処理の仕方によって生まれると言っても過言ではありません。

1970年代に入り、
服全体のシルエットがタイトなものになると、より体にフィットした、
つまりウエストにタックもギャザーもできないスタイルのパンツが要求されるようになりました。
それはあくまで見た目の問題で、
機能的なものではありませんでした。

しかし、女性の身体のウエストとヒップの大きな差は、依然そのままです。
ウエストとヒップの差が大きければ大きいほど、
余った布の処理は難しくなります。
ストレッチ素材やニットを使わずにウエストからヒップのラインを出すためには、
何らかの工夫をしなければなりません。
やってみればわかることですが、
ある程度の固さのある生地を、
何本ものダーツを入れずにウエストからヒップまでなじませるのは、
簡単なことではありません。
生地には無理が出て、余計なしわが出ることになりますし、
決してはき心地がよいものにもなりません。
そこで発明された1つの形が、
ウエストとヒップの差を少なくすること、
つまり、ウエスト位置をヒップのほうへと近づけるという手法でした。
ローライズと呼ばれるこのウエスト位置は、
当初、格好いいからではなく、
単に技術的な目的のために生まれたものだと思われます。
何かを縛ってとめるとき、
細いところをしばりたくなるのは当たり前の行為。
それをわざわざずらすのですから、それは苦肉の策とも呼べるものでしょう。

ファッションの流行は繰り返します。
ですから、このような、ウエストにタックやギャザーのない、
体にタイトにフィットした形のノータックパンツと、
それとは逆に、ウエストにタックがあり、
緩やかに体にそうタックのあるパンツとが交互に流行します。

このところ長く続いたのは、
ウエストにタックのないノータックパンツでした。
残念ながら、ノータックのパンツには体を補正して見せるという要素がありません。
身体になるべくそわせるということを意図しているのですから、
当然のことながら、ヒップから脚にかけてのラインは、
はいている人、そのままの形です。
また、いわゆる股上のところに水平にラインが出たり、
Y字型が目立って見えるなど、
必要以上に、その人の体型を目立たせるという特徴も持っています。
ノータックパンツをきれいに着こなのすに必要なのは、
理想的な体型でした。
だからこそ、私たちは服を自分にあわせるのではなく、
自分たちが服にあわせるべくダイエットに励むのです。

しかし、このようなタイトフィットのノータックパンツも行きつくところまでいくと、
必ず今度は後戻りすることになります。
そして今また、タックパンツの時代に入ろうとしているところです。

パンツの美しさというものは、
すっとまっすぐに下に落ちていく、その生地の流れでしょう。
折山にタックをとり、センタープレスをかけることで、
縦線はより強調され、脚そのものの形を目立たせることなく、
ウエストから足元へと、見るものの視線を導きます。
女性特有の、ウエストからヒップのカーブも、
タックをとることにより、自然と解消され、
下腹部のふくらみも、
太ももの太さも、はっきりとはわかりません。
また、水平ラインにしわが出ないため、
脚の長さもより長く見えるようになります。
そこにはもう、
下半身そのもののシルエットを外へさらして出て歩くような
気恥かしさはありません。
タックパンツをはくことで、ウエストから下は窮屈な履き心地から解放され、
他人の視線から守られます。

すべての流行は、行きつくところまでいったら、
必ず今度は逆の方向へ戻ってきます。
その先はもう行き止まりで、不毛な開発しかないからです。
もはやそこには着やすさ、楽しさ、リラックス感など、存在しません。
過度なダイエットを要求するような服は、それ自体、危険な存在です。
盲目的な利益追求主義者と、
市場の動きこそが正しいと断言する経営者たちが作る、
それら危険な服を、私たちは断固拒否することができます。

女性が男性のズボンをこっそりはいてみて、
鏡の前に立ったときのあの感動は、
ウエストからヒップにゆったりとタックができ上がり、
下半身が目立つこともなく、
自由に行動することができる、その点にあったと推測できます。
なんと自由なんだろう、そして見た目もそんなに悪くはない。
これなら女性がはいても悪くはないのではないか。
男性のズボンをはいてみた女性たちは、きっとそんなふうに感じたことでしょう。
もしそれがぴったりしたニットのズロースであったなら、
余りの恥ずかしさに、そのままの姿で外を歩こうと思う女性は
いなかったのではないでしょうか。

女性がズボンをはくことは、今では当たり前になりました。
100年前に、それは当たり前のことではありませんでした。
ズボンをはいた女性は非難の対象でした。
けれども今、私たちは、下半身を目立たせることなく、
脚をすっと長く見せるタックの入ったパンツを、
選ぶことも、選ばないこともできます。
それは100年前の女性が持っていなかった権利です。
後戻りするつもりがないのなら、
より進化したタックパンツを選びましょう。
それは選ばされるのではなく、
こちらから選ぶのです。
主導権はしっかり握っているのです。
奪われては、いけません。

☆写真:もっとも美しい女性のパンツ姿と言えば、「モロッコ」のマルレーネ・ディートリッヒ。ぜひ画面で動くディートリッヒの確認を。

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2014年12月8日月曜日

着崩し


着崩しにおいて、「崩し」とは何を崩すのでしょうか。
それは全体のバランスです。
全体のバランスをわざと崩した状態を着崩しと呼び、
それはおしゃれの1つの方法とされています。

外しのテクニックも、全体を100パーセント同じにしないという方法も、
すべて着崩しの中に入ります。
ですから、着崩しのテクニックとしては、
ジャケットの袖をまくるというのも、
外したアイテムを投入するというのも、
たとえば、パンツの丈や袖丈をアンバランスにするというのも、
すべて、それは着崩しなのです。
なぜこれほどまでにバランスを崩す方法を選ぶのでしょうか。
それはおしゃれとは、常に完璧を嫌がるものだからです。

たとえば、コレクションで発表されるスタイルは100パーセント完璧です。
そのブランドの表現したいことを、
一ミリの誤差もなくあらわしています。
しかし、ショーが終わり、
モデルではなく、街を歩く人が、そのショーのスタイルそのままであらわれたら、
それは少しおしゃれから遠のくのです。

たとえば、ハイブランドの広告用のスチール写真も完璧です。
イメージにふさわしいモデルの選抜、メイク、照明、小道具、セット、またはロケーションまで、
そのブランドのそのシーズンに言いたいことを余すことなく伝えています。
しかし、これもコレクションのスタイルと同じように、
同じままのスタイルで街を歩いたとしても、
注目されるのはその人ではなく、服やバッグになるのです。

最近は少々状況が変わってきてはいますが、
基本的に、ショーや広告用スチールのモデルは、
その人となりを表現しません。
あくまで服を目立たせるため選ばれたマネキン。
その人自身が服より先に出てはいけません。
ですから、ショーや広告スチールにおいて、
服よりもそのモデルの印象が強いようでは、
それは失敗です。

しかし、街へ出たならば、
要求されるのは、それと全く違った要素です。
服や靴やバッグが目立ち、
その人そのものが忘れ去られるようでは、
意味がないのです。
それはおしゃれな服、靴、バッグであり、
おしゃれな人ではありません。

おしゃれな人に見せるために、
おしゃれな人たちは工夫します。
それがいわば着崩しです。
完璧に提案されたスタイルを少しずつ切り崩していくことによって、
より自分に近づけます。
わざとジャケットの袖をとってみたり、
パンツを中途半端な丈にしてみせたり、
美しいバッグにファンシーな小物をつけてみせるのはそのためです。

提案されたブランドのスタイルをそのまま身につけるのなら、
それは着る人にとって、アイデンティティの崩壊を意味します。
なぜなら、人はもうその人自身を見ようとはしないからです。
見られるのはその服や靴やバッグの情報。
製造者、製造年月日、そしてその値段がその人の持つ情報となり、
その人の情報は希薄になり、瞬時に消費されていきます。
もはや、それは個人ではありません。

完璧なバランスを崩すことには、
もう一つ意味があります。
完璧には、それ以上という状態がありません。
完璧とは、それで行き止まりということです。
もう進歩はありません。
これ以上、発展も進歩も発達もしないということは、
実に退屈なことです。
そして、行き止まったその先には、崩壊が待っています。

完璧に行きついてしまったら、
人は崩壊を恐れて防御態勢に入ります。
そして、攻撃こそ最大の防御と言わんばかりに、
高く壁を築き、誰かからの関心を持たれることを拒み、
少しでも壁を越えて入ってこようものなら、
ここぞとばかりに攻撃します。
完璧な人は、崩壊を恐れる人であり、
もはや魅力のなくなった人です。
魅力がないということは、つまり、おしゃれではないということです。

完璧でないとは、すなわち魅力なのです。
そして、まだ未来があり、
発展する可能性が残されていて、
多くの人とコミュニケーション可能ということです。
それは、着崩すことによって、表現できます。

誰かとコミュニケーションをとりたいのなら、
そして、もっと発展したいのなら、
どうぞ着崩しを取り入れてください。
壁は自分で崩されるものではなく、自分で崩すもの。
完璧でないものは、永遠に進化し続け、
誰にも壊すことはできないのです。

☆写真:最近のわかりやすい例はファレル・ウィリアムスの大きな帽子。バランスを崩すことによって、彼らしさと魅力を同時に作り出しています。


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