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2014年11月24日月曜日

ダッフルコート

もとは漁師の防寒着として、
後にイギリス海軍の防寒着として採用されたのがダッフルコートです。
通常は、裏なしで、メルトンと呼ばれる厚地の生地が用いられ、
胸と背中のヨーク切り替え、大きなフードとパッチポケット、
そして、麻ひもとトグルと呼ばれる角や木片などを用いた留め具が特徴です。
トグルとは、もともと釣り用の浮き具。
そのため、木片や動物の角など、
水に浮く素材が使用されています。

軍服なので、もともとは男性用の防寒着。
しかし、これほどまでに広く老若男女に好まれるコートも、
ほかにはないのではないかと思います。

ダッフルコートの特徴は、
その完成されたデザインでしょう。
メルトン以外の、たとえばニットや綿入りのポリエステルで作られることはあったとしても、
その他の部分においては、もはや誰も改造することができないほど、
デザインが完成されています。
丈が長くなったり、
身頃がタイトになったりすることはあっても、
そのほかの部分は変わることなく、
ずっと同じ形で今も続いています。
変わらぬデザイン、
子どもから大人まで、
女でも男でも着用できる懐の深さ、
これこそまさにベーシックです。

さて、そんなダッフルコートですが、
大人の女性が着るとなったら、
そこには何か工夫が欲しいところです。
特に、カジュアル、ユニセックス、しかも子どもまでも着るようなものは、
何も考えずに着ると、子どもっぽかったり、
男性と変わらないスタイルになります。
子どものようでもなく、
男性にはできないやり方で、
ダッフルコートを着ることができれば、
それは単なるカジュアルな防寒用コートではなく、
おしゃれのために選んだ、特別なコートになります。

そのためにはどうしたらいいのか。
ダッフルコートがもともと持っているイメージから遠いものをあわせることです。
つまり、
軍人という男性から遠いもの、
たとえばジーンズとチノパンツ、アランニットなど、
いわゆる「海の男」を彷彿とさせるようなものだけで全体をコーディネイトすることを避けて、
そのかわり、
か弱く、美しく、非戦闘的で、ゴージャスで、リラックスできるものを組み合わせていきます。
女性にとってのそれは、
たとえば、シルクのブラウス、ミニスカート、華奢なヒールのパンプス、
花柄のドレスなど、
パンツと組み合わせたいのであれば、
男性が身につけないような色のダッフルコートを選ぶか、
または、靴や小物をうんと女っぽく、
決して男が選ばないような、
たとえば赤い靴、きらきら輝く素材が使われたバッグやストールなどを組み合わせます。

おしゃれとは、イメージの換骨奪胎です。
特に軍服オリジナルデザインのものは、
どこまでオリジナルのイメージを払しょくできるかが勝負です。
ダッフルコートに、同じマリンスタイルのボーダーを持ってくることも、
もちろんできます。
紺色のダッフルコートに、紺色のボーダー柄のニットは、
確かによく似合います。
けれども、それだけで終わりにしないで、
どこか必ず、もとのイメージから遠く離れたい。
絶対に「戦えないスタイル」にしたいのです。
なぜならそれを考えるのが、大人のおしゃれだからです。
そこが、学生とは違うところです。

遠く離れるために持ってくるものは、
レースのスカートかもしれないし、
シフォンのブラウスかもしれません。
または、真っ白なダッフルコートを選んで、ほとんど白でコーディネイトしてみることかもしれません。

考えること、
工夫をすること、
そのまま着ないこと、
これらが大人のおしゃれです。
与えられたそのままではなく、
教えられたそのままでもなく、
自分で見つけて、
自分で構築する。
失敗を繰り返しながら、
誰もが知っている正解などない、
「自分らしさ」の表現の仕方を探っていく。
それをできるのが、大人という立場です。
それなしに、与えられたひとそろえをただ着続けるならば、
それはただ子どものままだということ。
その「らしさ」は、決してその人の「らしさ」ではありません。

ダッフルコートの持つイメージと戦って、
どれだけ「戦い」から遠ざかるか。
戦争を放棄した私たちは、
それを考えなければならないのです。
それはこれからもずっとです。
それは、永遠に、そうなのです。

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2014年11月17日月曜日

デニム(その位置づけ)


デニムとは、通常はインディゴ、または藍色の染料で染めた糸を縦糸に、
染めていない糸を横糸として、綾織りに織った、
厚みのある木綿の生地の総称です。
多くはジーンズを作る際に用いられますが、
ジャケット、その他、用途は広がっています。

ジーンズに代表されるように、
歴史的に丈夫で、破れにくいデニムは、
主に作業着のために用いられてきました。
一説によると、インディゴは虫よけの役割もしたと言われています。
そのため、今でもデニムには、作業着由来というイメージがつきまといます。

戦後、特に70年代以降、
若者のあいだでジーンズが大流行したことによって、
ジーンズ及び、デニムで作られたアイテムは、
若さの象徴となりました。
デニムは長いあいだ、作業着、または若者の衣装としての位置づけでした。

カジュアル化が進み、さまざまなカジュアルな素材やアイテムが、
街着として登場し、認められるようになりました。
カジュアルであるとは、
それがスポーツウエアやアウトドア用のウエアであったか、
作業着であったか、
下着であったか、
それぞれにもともとはおおやけの場では着るべきではなかったもの、
という由来を持つということです。
それらは、スポーツウエアであったポロシャツ、
下着であったTシャツやキャミソール、
そして、作業着であったデニムで作られたジーンズやGジャンと呼ばれるジャケットです。

カジュアル化の後に来るものは、
これらのブランド化です。
ハイブランドがこれらをデザインし、グレードアップすることによって、
それらはより認められ、どこへ着ていってもおかしくない存在になります。
ここのところ、デニムのブランド化、グレードアップ化が特に進み、
ジーンズだけではなく、
デニムのコートやテイラードカラーのジャケット、ドレスまでが出現しています。

そのことは、着こなしの幅が広がり、選択肢がふえるという意味でも、
洋服の中のヒエラルキーが崩壊するという意味でも、
歓迎すべきことなのですが、
大人になればなるほど、それらを取り入れるときには注意が必要です。

グレードアップしたデニムですが、
それは残念ながら、やはり若者のものであり、元作業着です。
特にデニムについて、ほかの素材ともっとも違うのは、
素材のよしあしが、見ただけではほとんど判断できないという点です。
どういうことかというと、
そのデニムがどこ産なのか、
オーガニックコットンなのか、
有名な生地屋のブランド生地なのか、
見たところでは、ほとんどわからないのです。

ジーンズははいてしまえば、5万円以上するような高価なジーンズでも、
量販店で売っている3000円のジーンズでも、
見た目には、その差がわかりません。
それはほかの天然素材であるウールやシルクなどとは、この点が大きな違いとなります。

大人が陥りがちなのは、
これは高価なジーンズ、またはデニムでできたジャケットやコートなので、
どこへ着ていっても恥ずかしくないだろうと勘違いすることです。
しかし、生地で差がつけられないデニムは、
どこまでいっても、若者のものであり、作業着です。
ということはつまり、どんなに高いジーンズを身に付けたところで、
チープに見える可能性が高いのです。

大人がデニムを作業着としてではなく身につけるときは、
そのチープさをそのまま出さないように、
バランスをとることが必要です。
年をとればとるほど、
そのチープさを上回るようなラグジュアリーな素材のものやジュエリーをあわせたり、
または作業着とは全く別方向の靴やバッグをあわせることにより、
全体の平均値を上げなければなりません。
それなしに、いい年の大人が、何の工夫もないジーンズ、Tシャツ、スニーカーで街を歩くとしたら、
それはかなり危険な行為と言わざるを得ません。

若者はそれをする必要がありません。
若さはそのチープさを凌駕します。
しかし、いい年の大人がそのチープさを放置したならば、
それは単なる貧しさであり、格が下がることを意味します。

幸いなことに、このところ新しく出てきたジーンズやデニムのジャケットには、
それだけ着てもチープに陥らないように、
豪華な刺繍がされていたり、スワロフスキーのクリスタルが縫いつけてあったりします。
それらは、ジーンズそのものがバランスをとっていますから、
あまり全体のコーディネイトを気にせず着ることができます。

確かに大人になれば、肉体や肌の若さは失われます。
しかし、それとは引き換えに、手に入れたものがあるでしょう。
若さも1つの輝きではあるけれども、
大人であるならば、若さとは違った輝きを、
長い年月をかけて、培ってきたはずです。
デニムを身につけるとき、
それが外にあらわれます。
それが鍛え抜かれた肉体や知性や技術なのか、
はたまた、戦いの後に手に入れた優しさなのか、
それはもちろん、人それぞれ違います。
人それぞれ違うように、それぞれがそれぞれに似合う方法で、
それを表現すればよいのです。
答えはいつでも、1つではありません。

☆写真:セルビッチがどうとか言われても、普通の人にはわかりません。

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2014年11月10日月曜日

理想のボディ(トルソー)を探すべし


今日は上級編です。
色についても、細かいテクニックも理解し、
実践できるようになったけれども、
なぜか「格好良く見えない」、その理由についてです。

オーダーメイドの落とし穴」で、
オーダーしたその人の身体に単純にゆるみを足しただけの服を作ったところで、
格好良い服にはならないと書きました。
この場合、オーダーメイドでしたが、
では、既製服の場合はどうでしょうか。

既製服メーカーは、ほぼすべて工業用ボディというものを使っています。
(トルソーはフランス語ですが、日本で婦人服を作る現場では、
ボディと呼ぶのが通常です)
そして、その工業用ボディにシーチングと呼ばれる、
木綿の生地をのせて、トワルという布のもとがたを作成することによって、
紙のパターンを作ります。
(シーチングとは、つまり、シーツの生地ということです。)

この工業用ボディですが、
どのような基準で作られているかというと、
ある一定の日本人女性の体型の平均値によって作られます。
工業用ボディの目的は、
多くの人に着られるように作るということです。

日本人女性の体型が理想の体型かと言えば、
それは違います。
理想とは、常に今の自分よりも上の状態です。
平均的な顔と、美しい顔は違うように、
平均的な体型と、美しく格好良い体型も違います。

しかし、日本の多くのアパレルメーカーは、この工業用ボディを使ってパターンを作ります。
専属のフィッティングモデルを使って、
トワルチェックをするのは、ごく一部の限られたブランドのみです。
どんなに大手であっても、シーチングで作ったトワルを縫って組み立てて、
実際にそれをモデルに着せてチェックするところは、ごくごく少数派です。
ほとんどは、ボディに着せたまま、しかも半身のみで、
サンプルを作成します。
そして、サンプルを着てみるのはほとんどの場合、
そこの会社のスタッフです。
理想の体型のモデルではありません。

つまり、日本の多くのアパレルメーカーは、
理想の体型のための、格好いい服を作っているわけではないのです。
着てみて、平均値に近くなるための服を作っています。

ここまで書いておわかりでしょうか。
この最大公約数を目的として作られた工業用ボディを使ったパターンでできた服を着たところで、
格好良く見えるわけがありません。
なぜなら、彼らは格好良いことなど、目指してはいないからです。

例として、写真を見てください。
これはBUNKAボディです。
20年以上前のものなので、今は少し改良されたとは思います。
一見してわかるのは、前側に傾斜した首と、
猫背気味、しかも肉づきのいい背中、そして鳩胸です。
つまり、日本人平均女性の体型とは、
このように、背中が丸まって、鳩胸で、首が前に出ている、
ということなのです。
このボディが着て美しいジャケットを、
もし私が着たならば、私は不必要に猫背になり、
背中の部分が余り、鎖骨のあたりはぶかぶかになります。
もちろん、それは私にとって理想でも、格好いい姿でもありません。
よって、私はBUNKAボディで作られた服は、着たくありません。

80年代半ば、日本中がバブルで浮かれていたころ、
アルマーニのジャケットが、おしゃれな人のあいだで一世風靡をしました。
なぜか。
アルマーニが提案する、格好いい体型が、
この日本の平均的体型とは全く違うものだったからです。
そのジャケットは袖を通しただけで、
猫背が解消され、背筋がしゃんと伸び、
誰でもが、格好良く見えたのです。
服、特にジャケットのように、中に芯を入れ、形が作られた服には、
このように肉体を違うように補正する効果があります。
80年代半ば、インポートブランドが多く入るようになったとき、
一部のおしゃれな人たちは、そのことに気づいたのです。

パリコレクションに参加するようなブランドは、
独自のボディを使います。
そして同時に、独自の理想とするフィッティングモデルを必ず雇っています。
また、デザイナーが交代したら、そのボディもかえているはずです。
エディ・スリマンのサンローランは、
それ以前のサンローランとは、絶対に違うボディを使っています。
着てみれば、その違いは明らかです。

どんなジャケットを着ても、何となく垢ぬけて見えない、
自分の理想に近づかないのは、
もともと、あなた自身の理想とする体型のボディを使って作った服を選んでいないからです。
そんな服は、誰が着ても、その程度のものなのです。
なぜなら、彼らの理想は、不特定定多数にたくさん売ることなのですから。

幸いなことに、現在、日本だけでなく、各国からのインポート・ブランドが手に入る環境に、私たちはいます。
そのすべての中には、どこかに必ず、理想とするボディを使って服作りをしているブランドがあるはずです。

では、どうやって自分の理想のボディを使って服作りをしているブランドを見つければいいのでしょうか。
それは、自分で端から着てみる以外、方法はありません。
どんなに誰かが骨格を診断したところで、
そんなことは、決してわかりません。
また、洋服を着るときに重要なのは、骨だけではなく、筋肉と脂肪のつき方、
そして姿勢です。
洋服の構造やパターンを理解せず、
骨格だけで判断できると考えるならば、
それは素人考えにすぎません。
(言っておきますが、服のパターンは、専門学校に3年行ったぐらいでは、
絶対に理解できません)

西洋美術の歴史を見てみればわかるように、
ルネッサンス以降、理想の肉体美の追求というテーマが必ず出てきます。
ミケランジェロのダヴィデ像が美しいのは、
イタリア人男性平均体型だから、ではないのです。
理想としての、憧れとしての、たどりつきたい体型だからなのです。
それは、街を歩けばごろごろ転がっているような体型では、決してありません。
そして、日本には、このミケランジェロのダヴィデ像に匹敵する、
理想の体型の追求という文化がないのです。

もちろん、専属のフィッティングモデルがいるようなブランドのものは、
安くはありません。
ですから、全身をそれでそろえろとは言いません。
けれども、できればジャケットとコートは、
自分の理想の体型のボディを使ったブランドのものを買うことをお勧めします。
そんなブランドは、自分の欠点を隠し、理想の体型にその人を近付けます。

チェックポイントは、横と、後ろ姿です。
ベテランの販売員の方以外の言葉を信じてはいけません。
どんなに不格好でも買おうとさせるのが、今の販売の姿勢です。
販売員の方とは、適当に話をあわせ、
いつもの自分より、自分がより理想に近づいているかどうかチェックしてください。
猫背に見えたり、変なところにしわができたり、
姿勢が悪く見えるなら、そのジャケットは、あなたに合ってはいません。
さっさと次を探しましょう。
もちろん、単なる白いシャツも、ニットもすべてにおいて、
いいパターンのものは、凡庸な体型を理想に近づけるようにできているのですが、
当面のところ、ジャケットとコートだけの試着で構いません。
それを着てみれば、大体すべてわかります。
ジャケットがだめなところは、すべてだめです。

自分の体型の欠点を知っているのも自分、
そして理想の体型を知っているのも自分です。
誰もが同じ体型を目指しているわけではありません。
だから、誰からも、どこのブランドが自分にぴったりか、教わることはできません。
文章を読んだだけでもだめ、
雑誌のモデルが着ている写真を見ているだけでもだめです。
それがわかるのは、実際に着てみたときだけです。
行動しないことには、何もわからないし、変わりません。
自分で行動したものだけが、理想の自分に近づけます。
それ以外、願いがかなう方法は、残念ながら、ありません。

☆写真:これはBUNKAボディですが、ほかの日本の工業用ボディも大差ありません。

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2014年11月3日月曜日

レザー・ジャケット(革ジャン)

バイカー・ジャケットに代表されるレザー・ジャケットは、
男らしさ、ハードさ、反抗的なイメージを持つアイテムです。
黒い革ジャンで、まず思い出されるのは、
「理由なき反抗」のジェームズ・ディーンであり、
「波止場」のマーロン・ブランドです。
それはまさに男くささや、そして社会に対する反抗的な男性によく似合うジャケットであり、
彼らはそのキャラクターを強調するために、
よりハードで、タフな革ジャンを選びました。

女性がこの男くさいアイテムである革ジャンを着こなすときは、
このマスキュリンの度合いが100パーセントの革ジャンに対して、
どのようにフェミニンな要素を取り入れてバランスをとるかがポイントになります。

ハードなレザーを身につけた女性として、
真っ先に思い出されるのは、キャット・ウーマンであり、
日本では峰富士子です。
(ええ、峰富士子は二次元の存在です。また、レザーではなく、ビニールだという意見もあり)
彼女たちは、その豊満な肉体をハードなレザーで身を包むことにより、
女性性をより強調させます。
そして、その女性的なボディのラインと、男性性の象徴であるレザーのコントラストが、
セクシーな感じを生み出します。
そこに落差があればあるほど、見る人は、なまめかしさや、
色気を感じるのです。

残念ながら、人間は大人になればなるほど、その性差がなくなっていくと言われています。
性差があいまいになり、
それをそのまま放置したならば、
おじさんおばさんや、おばさんおじさんになり、
男性と女性、どちらともつかない、
かといってデヴィッド・ボウイやティルダ・スウィントンのような、
アンドロジーナスな魅力があるわけでもない、
中途半端な存在になっていきます。

レザー・ジャケットは布帛のジャケットに比べて高価であり、
大人にふさわしいアイテムであるわけなのですが、
大人がレザー・ジャケットを着る際には、
「まるで男」にならないように、注意が必要です。
それは余りにも簡単に、
男性側の崖へ落っこちてしまうアイテムでもあるからです。

「まるで男」にならないためにも、レザー・ジャケットを着るときは、
ジャケットそのものにフェミニンな要素が入ったものを選ぶか、
(たとえば袖はニットのもの、明るい色のもの、写真のようにスワロフスキーのボタンが使われたものなど)
もしくは、コーディネイトするときに、スカートやドレス、
シフォンやフリルなどのついたブラウス、
ピンヒールの靴、パールのネックレスなど、
男性が身につけないような、女性的な要素のアイテムをあわせることが肝要です。
そして、男性性と女性性のコントラストがはっきりすればするほど、
セクシーになり、おしゃれに見せることができます。

もちろん、峰富士子のようなグラマーなボディや、
緩やかに波打つ豊かな髪の持ち主など、
その人自体が女性性の象徴のような存在だとしたら、
あえて女性的なアイテムを持ってくる必要はありません。
要するに、後ろから見て、男性と同じにならないようなスタイルを作り上げることができれば、
それでいいのです。
見る人の心を動かすことができるのは、その落差なのですから。

ここで言う男性や女性は、
必ずしも生まれたときにそうだと判断された性別ではありません。
自分がぴったりフィットすると感じられる性別のことです。
生物的には女性と判断されたとしても、
実際はそうではない人もいるでしょう。
また、男性でも、女性でもないという性が、
自分にとって一番ぴったりくると感じる人もいるでしょう。
衣服を着ることによって、
私たちは、より自分にぴったりくる性を表現することができます。

レザー・ジャケットを着るとき、
自分が女性だと感じている人は、女性ならではの着こなしを、
自分が男性だと感じている人は、そのままストレートに男性的な着こなしを、
そのどちらでもないアンドロジーナスな存在なら、そのどちらにも属さない、オリジナルな着こなしを、選ぶ権利が私たちにはあります。
そして同時に、女性が男性のようになる必要も、
男性が女性のようになる必要もありません。

自由と平和がある限り、
フェミニンでも、マスキュリンでも、
私たちは選べます。
男性的なレザー・ジャケットに身を包みながら、
ありったけの女性性を表現する、
そんな着こなしが許される時代に、私たちは生きています。

☆写真:スワロフスキーのきらきらしたボタンがレザーのハードさを和らげている、上質な革のジャケット。こんなジャケットが、大人の女性にはふさわしいです。

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2014年10月27日月曜日

「ファッションで世界を変えられるか」という問い

2015年春夏のプレタポルテのコレクションで、
シャネルはストリートのセットを作成し、
フィナーレでプラカードを持ったモデルたちがデモ行進をするという演出を行いました。
それを受けて、
「ファッションで世界を変えられるか」という問いがあちこちから聞かれてきました。
さて、ファッションで世界は変えられるのでしょうか。

パリ・コレクションがファッション業界のトップであるとすれば、
底辺は木綿畑であり、羊牧であり、石油の掘削現場です。
その底辺からトップへいくまでの間に、
収穫する人、運ぶ人、生地を作る人、
デザインやパターンを作る人、
縫製する人、
検品する人、アイロンがけをする人、
荷造りする人、搬入する人、
売り場に並べる人、
そして服を売る人まで、
実にさまざまな種類の業種、そして人がかかわります。
ファッション産業は、時間軸で見ると、人間が衣服を作り始めたときからであり、
空間軸で見れば、それは世界規模の広がりです。
パリ・コレクションという一部の小さな狭い側面だけを見れば、
ファッションなどというものは、世界や歴史に対してとるに足らないものかもしれませんが、
裾野から頂上までを俯瞰して見るならば、
それは世界の隅々まで、そして過去から未来まで、
広範にわたり影響を与える存在です。

哲学用語で、「ホロン」という考え方があります。
部分は全体をあらわし、また全体もまたその部分と同じ構造であるという考え方です。
その考え方でいくと、
ファッション業界は世界の産業の部分であるとともに、
その構造は、まさに世界の産業そのものであると言えます。
そして、服を1枚買うごとに、
私たちは、この構造に参加することになります。
私たちが服を1枚買うという行為がファッション産業に与える影響は、
世界の産業に与える影響と同じものなのです。

ファッション産業は、「フェア」であることとは、ほど遠い産業です。
人権をないがしろにされる部分も多いです。
表に見えるきらびやかさ、美しさとは対照的に、
内部はあきれるほどに残酷で、腐っています。
1枚のTシャツを外から見ただけでは、
その来歴はわかりませんが、
木綿畑までたどってみれば、多くのものには、何らかの「フェア」でないことが存在します。
それは過剰な農薬かもしれませんし、児童労働かもしれません。

私たちは、服を1枚買うごとに、この構造に影響を与えます。
違う言い方をすれば、どんな服を買うかという選択する権利を持っています。

世界を変えることができるのは、この選択する権利を持っている私たちです。
私たちは選ぶことによって、世界を変えることができます。
つまり、「フェア」なものを選ぶならば、フェアな世界へ変える手助けをすることができます。

しかし、多くの人がここで、
「だけど」と言うでしょう。
「フェア」なものは高価で買えないと。
それは、確かにそのとおりでしょう。
なぜなら、私たちの多くもまた、ホロンの全体であるところの産業に組み込まれているからです。
私たちが買えないのは、
私たちが「フェア」な扱いを受けていないからです。
私たちの行為は、自分の尾を噛むウロボロスの蛇のように、
私たちにかえってきます。
「フェア」な扱いを受けていないから、「フェア」なものは買えない。
この悪循環から抜け出すためには、
「フェア」な行いによって、「フェア」な扱いを受ける方向へ乗り換えなければなりません。

過剰な農薬にむしばまれているのは、過去のあなたかもしれません。
劣悪な環境の縫製工場で事故に遭うのは、未来のあなたかもしれません。
それは、世界のどこか知らない地域の話でも、
自分たちに全く無関係な話でもありません。
それは、日本で言えば福島の縫製工場の状況でした。
そして現在のあなたが、「フェア」でない扱いを受けているのなら、
「フェア」な行為をしないことには、あなた自身も、
そして、世界も変えることができないのです。

「だけど」と言う前に、少し考えてみましょう。
いつもなら2枚買うTシャツを1枚にすれば、よりフェアなものが買えないか。
新しさだけを追求しなければ、より安価に、しかも高品質なものが買えないか。
リサイクルショップでなら、手に入る範囲で、熟練した職人が、フェアな対価で作った、
上等なツイードのジャケットが買えはしないか。
方法は、ほかにも幾らでもあるでしょう。

「ファッションで世界を変えられるか」という、その問いは、
問いの中に含まれる、世界に対するファッションという、
その前提が間違っています。
ファッション産業そのものが世界の産業の構造であり、
それは世界に含まれています。

ファッションが世界を変えるのではありません。
「フェア」なものを選ぶという行為がファッション産業を、
ひいては世界を変えます。
そして、最終的にはあなたを変えるでしょう。
その力を、私たちは持っています。

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2014年10月20日月曜日

コスチューム・ジュエリー

コスチューム・ジュエリーとは、本物の貴金属や宝石を使ったファイン・ジュエリーに対して、
本物ではない、
たとえばガラス、真鍮、スチール、プラスチック
などで構成されているアクセサリーについての総称です。
もとは、20世紀の初頭、本物のジュエリーの代理品として、
また、舞台や映画で身につける衣装のアクセサリーとして使われたところから始まりました。
コスチューム・ジュエリーで誰もが知っている存在なのはシャネル。
1920年代、シャネルはファイン・ジュエリーのデザインもしましたが、
同時に、偽物の真珠を使ったコスチューム・ジュエリーを発表し、
コスチューム・ジュエリーのモードでの地位を確立しました。
1920年代と言えば、1929年の世界大恐慌。
不況とコスチューム・ジュエリーは大いに関係があります。
つまり、本物に手が届かなくなったとき、
人々はfaux bijoux(偽物の宝石)を愛するようになるのです。

さて、洋服のシルエットが変わってくると、
それにふさわしいアクセサリーのボリュームも変わってきます。
しかもそれは単純に比例します。
タイトなシルエットの服には小さめの、
大きなシルエットの服には大き目のアクセサリーが、
全体のバランスをとるためにも使用されます。

2012年以降、洋服のシルエットは大き目な方向へ動きました。
それに伴って、アクセサリーも大きくなりました。
それまでのタイトな服の時代は、小さめでも偽物ではなく本物、
つまり貴金属や宝石のジュエリーをつけることができました。
ダイヤモンドや24金であったとしても、
小さいものであったら、多くの人が買えました。
しかし、ジュエリーにもボリュームを求められるようになると、
それをすべて本物でまかなうことは不可能です。
また、本物しか使えないとなると、デザイン的な制約も大きい。
ボリューム、そして自由なデザインの表現を追求できるのは、
偽物で作られているコスチューム・ジュエリーならではです。
そして、服のシルエットが大きくなったのと同時に、
にわかにコスチューム・ジュエリーは再び注目されるようになりました。

日本においては、洋服とはまた別のトレンドの中で、
長いことジュエリーについてキャンペーンが行われてきました。
初期は、真珠のジュエリー、
そして、それが行きわたったところで、
一粒ダイヤモンドのジュエリーです。

パールのネックレスを1本は持っているべきです、
どんなときでも使えます、
そして何よりおしゃれに見えますという、
お説教にも近いうたい文句に、
多くの女性は納得し、1本はパールのネックレスを保持するようになりました。
もちろんそれは日本が真珠の生産国であることも関係しています。
そうでなかったら、これほどまでに真珠のネックレスは広まらなかったでしょう。
しかし、それも多くの女性に行きわたったころ、
次のキャンペーンが出現します。
それが、「一粒ダイヤモンドのネックレスこそおしゃれ」キャンペーンです。
ダイヤモンドは宝石の女王、誰にとっても憧れの宝石、
それを自分のものにしようというキャンペーンは、
日本の円が強くなり、
以前よりダイヤモンドが手に入れやすくなった時期あたりから始まったと思います。
かくして、現在、一粒ダイヤモンドはかなり多くの女性が保持するにいたりました。

しかし、ここで思いだしていただきたいのは、
見慣れないものほどおしゃれに見えるという法則です。
多くの人に行きわたれば行きわたるほど、
見慣れれば見慣れるほど、それはもはやおしゃれには見えません。

パールのネックレスも一粒ダイヤモンドも、残念ながら、
今やそのような見慣れた存在になりました。
つまり、それをしているからといって、特別おしゃれには見えなくなったのです。

コスチューム・ジュエリーの特徴は、デザインのバラエティの豊富さです。
似たようなものがあるとしても、多くの人が全く同じものをするという状況にはなり得ません。
また、最近出現してきたコスチューム・ジュエリーは、
以前のものより進化していますから、デザインだけではなく、
使われる素材も、羽や布、リボン、クリスタルなど、より多岐にわたっています。
また、多くの有名、無名の作家がさまざまなものを発表し、
一点ものも多いです。
これをうまく利用すれば、自分にぴったりの好みの、
しかもほかの誰もが持っていないようなものを見つける、
そして手に入れることが可能です。
それはまさに「見慣れない」ものであり、よって、それはおしゃれに見えます。

デザインの点では多くのメリットがあるコスチューム・ジュエリーですが、
もちろん欠点もあります。
それは、あくまで偽物なため、最終的にはごみ、しかも燃えないごみになる可能性が高いということ、
そして、ものによっては非常にチープな質感であることです。

コスチューム・ジュエリーは、チープなファスト・ファッションから、
高価なハイブランドまで、どこでも売られています。
当たり前ですが、安いものはそれなりの質感です。
ただのガラスよりもスワロフスキーのほうが、
そして半貴石やクリスタルのほうが高価なのは当然です。
ある程度の大人であるならば、あまりにチープなものを選ぶべきではありません。
なぜなら、チープなものは、それを身につける人を安っぽく見せるからです。

また、どう考えても1年であきてしまうようなものをいくつも買いこむのも考えものです。
明らかにすぐ燃えないごみになるとわかっているものを買うのは、
21世紀の考え方ではありません。
最終的にはごみになってしまうとしても、
たくさんは持たないか、
分解してリフォームすることが可能なものか、
コットンパールや水牛の角のように燃えるごみになるもの、
もしくはシャネルのコスチューム・ジュエリーのように、
いらなくなったとしても、誰かが欲しがるものを選ぶのがよいでしょう。

コスチューム・ジュリーはいつも流行しているわけではありません。
また、本物のジュエリーは高くて買えないとしても、
コスチューム・ジュエリーなら買えるというものも出てくるでしょう。
何より、唯一無二の自分のために、
ユニークなコスチューム・ジュエリーを探すのは、
楽しい行為になることは、間違いありません。
購買可能な価格での一点ものも、コスチューム・ジュエリーならではです。

どんなものにも旬はあります。
コスチューム・ジュエリーはまさに旬のジュエリーです。
1つ足しただけで、それは今風になり、
自分らしさの表現もできます。

身につける人が本物ならば、
faux bijoux(偽物の宝石)さえ本物に見えてきます。
その逆に、偽物の人物が身につけるならば、
それは偽物のまま。
よって、コスチューム・ジュエリーはリトマス試験紙のような存在でもあります。
いかにも、コスチューム・ジュエリー(衣装宝飾)は、
世界という舞台で物語を演じる主人公に、
ふさわしいジュエリーではあると言えるでしょう。
本物か偽物かは、
そのパフォーマンス(演技)を見ればわかります。

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2014年10月13日月曜日

フォークロア

ファッションでは、フォークロアと呼ばれる民族調のスタイルが、
周期的に取り上げられます。
もちろんそれが流行る場合もあれば、流行らない場合もありますが、
ここ最近で大流行したのは70年代でした。
ヒッピー・ムーブメントと相まって、
より若く、そして自由な雰囲気を表現するために、フォークロアが流行りました。
70年代のフォークロアの特徴は、ボヘミアンと呼ばれたジプシーのスタイルが中心で、
主にチェコスロバキアなど、東欧の民族調スタイルを取り入れたが主流でした。
(わかりやすいイメージとしては、スティービー・ニックスのスタイル)

2014年現在、再びフォークロアが注目を浴びるようになりました。
しかし、それは70年代の主に東欧イメージのものとは少し違い、
もう少し範囲も意味も広く、地域性にこだわるよりも、
その手法、つまり「手仕事」としての側面に注目するものとなりました。
なぜなら、再びフォークロアが注目されるようになったのは、
これまで続いた、平坦で、変わり映えのしない、
退屈な大量生産の衣服に対する反動が原因だからです。

今回流行のフォークロアは、その手仕事が重要となります。
ですから、必ずどこかしら手で仕事をしたような痕跡、
それは刺繍であったり、アップリケであったり、
が加えられます。
繊細なレース編みや、複雑な模様編みのニットなども、
広義の意味ではフォークロアに入れてもよいでしょう。

また、今回の流行の特徴は、フォークロアとして取り上げる民族調の範囲が、
広く設定されていることです。
「手仕事」のあとが見られるものなら、それは地域を問いません。
東欧であっても、東洋であっても、
そしてたぶんこれから出てくるであろう南米やアフリカであっても、
機械ではなく、手を使って作られたあとがあるならば、
それはフォークロアなのです。

シルクシフォンのドレスに施された繊細な刺繍、
ウールのマントの上の動物や植物モチーフのアップリケ、
編んだひもでできたブレスレット、
羽や半貴石がついた、ロングネックレスなど、
このフォークロアの要素は、ありとあらゆるところに見られるようになりました。

日本に住む私たちにとって、
フォークロアは、大流行とはいかないまでも、
いつもどこかで何しら存在しているような、
身近な存在です。
中央線の中野から国分寺あたりまでの、
ヴィンテージ・ショップや、エスニック・スタイルのショップをのぞけば、
何かしら手に入りますし、それを今までも取り入れていた人たちは多いでしょう。

素朴な感じ、かわいらしい感じが、
特にナチュラル志向のファッションが好きな人たちに受け入れられてきた経緯があると思います。

ただ、今の流行は、それがあくまでモードの世界であらわれてきたもの。
素朴さや、ナチュラルそのままではなく、
もう少し洗練させて、より上等に、手の込んだもののほうがふさわしいです。
そんなフォークロア調の何か、
たとえばアクセサリーや、アップリケのついたバッグなど、
1つ全体のコーディネイトに付け加えるだけで、
そのほかのアイテムがいわゆるナチュラル・テイストではないとしても、
21世紀の新しいフォークロアを表現することができます。

民族調の地域は、どこでも構いません。
重要なのは手仕事です。
ですから、今回は自分たちが住む地域、
つまり日本を含むアジアのものを取り入れても、
それは構わないわけです。
アジア地域にも、さまざまな民族調の衣装があり、
それにはどこかしら、必ず手仕事のあとがあります。

手仕事は、均質化した、終わりのないほど退屈な機械化の、
対極のものとして注目されています。
手仕事の特徴は、均一ではない、ということです。
極度に発達した機械化は、人間の衣服を徹底的に均一なものに統一しようとします。
しかし、それを着せられる人間は、均一な存在では、全くありません。
一人一人違って、1つの価値基準では判断不能の、
ばらばらで、不揃いな存在です。
それなのに、すべてに同じものを着せるということなど、
無理なことなのです。
肌の色も、地域の文化や特色も、気候も、言語も、生活習慣も、
すべて無視して、ある1つの価値基準に統一しようとする流れに対する反動として、
今回のフォークロアが出てきたのであるならば、
その結果として、手仕事が全くばらばらであっても、全く問題はありません。
それどころか、手仕事が目指すものは、ほかには存在しない、
ユニークなものであるのです。
それはあたかも、私たち一人一人がユニークであるがごとく、です。

そんなユニークな手仕事と、どこでどんなふうに出会えるか、
それは人それぞれ違うでしょう。
それはスーパーマーケットの、均質なものが大量に並べられている棚からは、
選べないということだけは確かです。

誰とも同じではない自分が、
ユニークな手仕事の衣服やアクセサリーを身につける。
それが、21世紀のもっともファッショナブルなフォークロアです。


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