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2014年7月21日月曜日

パートナーの衣装

今日、取り上げたいのはパートナーの衣装についてです。
芝居や映画では、衣装デザイナーがいて、カップルで登場する場合、
2人が一緒に並んで完璧に見えるような衣装を考え、用意します。
私たちは、いささかの疑いもなくその2人を見ます。
それは、いい趣味の場合も、悪い趣味の場合も、
ともにお似合いなカップルになっているからです。

今回、特に書きたいのは、服装についての主導権を握っている相手についです。
ですから、多くの場合、恋人はそれに当たらないでしょう。
結婚する以前のパートナーは、それぞれ自分で衣装を何らかの方法で、
それは自分で選んだものではないとしても、調達してきているはずです。
しかし、日本では、多くの場合、結婚して数年たつと、
妻が夫の服装についての主導権を持ち、
すべてそろえるまではいかなくても、かなりの部分、選択したり、
買ったりするのではないかと思います。

ですから今回は、服装について自立して自分で選択し、購買できるパートナーの方々の話は除きます。
それができる方々は、それぞれが自分の流儀でやればよいと思います。
問題なのは、それができないパートナー、ほとんどの場合は夫の服装についてです。

映画やドラマを見ていて、ご夫婦が一緒に登場してきたシーンで、
夫の服装に唖然とした記憶は、ほぼないと思います。
しかし、実生活ではどうでしょうか。
いつもきれいにしている奥様から、
旦那様の素敵なお話をいろいろ聞かされていて、
期待に胸を膨らませて、そのご夫婦が2人そろって登場してきた場面に出くわしたとき、
一瞬、言葉を失うような、
確実に何かが違うと悟るような、
視線の置きどころに困り、
足元の地面が崩れ落ち、
もはや、この奥様は信用できないとまで思い至るような、
そんな旦那様の服装を目撃したことはないでしょうか。

もちろん全員ではありません。
素敵な奥様にふさわしい、素敵なスタイルの旦那様も多くいらっしゃいます。
しかし、期待された像と実像とのギャップがあまりに激しく、
取り繕う言葉も出ない、そんな場面は多くはないでしょうか。

残念ながら、日本の多くの男性は、どのような場面でどのような服装をしたらいいか、
またワードローブはどのように構築したらいいかの知識を持っていません。
完璧に把握しているのは仕事場での服装についてのみです。
服が好きで、知識があり、よく考えているのは、まだまだ少数派です。
(だから少数派の皆さんは大丈夫です。問題ありません)

なぜここでポロシャツなの?
なぜ白いTシャツにゴールド喜平チェーンのネックレス?
パンツの丈が七分なのはどうして?
なぜこの場にそのスニーカー?
なぜシアーな靴下?
なぜジャージ?
数え上げたらきりがありませんが、
多くのへんてこりんなコーディネートをよく見ます。

ご夫婦が二人別々に行動しているときは、それでもほとんど気になりません。
また、二人が同じレベルである場合も、特別おかしいとも思いません。
しかし、明らかに服装が不釣り合いな2人が一緒にいるとき、
そのおかしさが目立ちます。

日本の男性には、仕事場、そしてホテルやゴルフ場以外など特殊なエリア以外には、
特にカジュアルな服装について、明確なルールがありません。
現在は、明確なルールがない上に、服装のカジュアル化が重なって、
より一層、混沌とした状態です。

このへんてこりんなスタイルの原因ですが、
多くの場合、行きすぎたカジュアルであり、家の中の延長が外に持ち出されたからです。
カジュアルな服装、たとえばTシャツやジャージは確かに楽なのですが、
決して美しくは見えません。

日本の男性がおしゃれでないとは、決して思いません。
歴史的に考えても、つまり着物の時代から考えても、日本の男性のおしゃれレベルは相当なものです。
着物の柄、帯との組み合わせ、裏の柄に至るまで、
世界屈指のしゃれものです。
また、着物の時代が終わった戦後すぐでも、
たとえば、黒澤明の映画や小津安二郎の映画を見れば、
おしゃれなスーツ姿の男性がぞろぞろ出てきます。
しかしはっきりとした違いは、彼らは決してカジュアルな姿ではないということです。

もし妻の側が夫の服を選んでいるとするならば、
気をつけるのはただ1つ、行きすぎたカジュアルにならないようにすること、です。
行きすぎたカジュアルとは何なのか、
それは部屋着の延長であり、楽であることの追求です。
もっと端的に言えば、楽であるとはジャージである、ということです。

たとえば、カットソーと呼ばれる綿ジャージのTシャツは、もとは肌着です。
スウェットパンツもスポーツウエアです。
1つのスタイルからジャージを減らせば減らすほど、カジュアルから遠くなります。
ジーンズにあわせていたTシャツを普通の木綿のシャツに変えただけで、
印象はがらっと変わります。
ジャージを駆逐していけば、それだけで小奇麗になります。

小津安二郎の映画に出てくる笠智衆がいつでも美しさを崩さないのは、
決してTシャツを含むジャージ素材のものを着てあらわれないからです。
着ているのはスーツか、シャツとズボンか、または着物です。
ニットで許されるのは冬のセーターとマフラーぐらい。
そのほかは、肌着に近い素材のもので表には出ません。
色の組み合わせとか、バッグや靴、アクセサリーなどは、
あくまでその次の段階の問題です。

もちろん余裕ができたなら、
二人で並んだとき、つり合いのとれるスタイルになるように考えるといいでしょう。
あまりにも不釣り合いであり、自分の信用さえ疑われるようでは、
それは問題です。
とりあえず、足を引っ張らない程度まで、引き上げてください。

日本は、カップルで出かけたり、行動することが少ない社会です。
二人でパーティーに出たり、コンサートに行くなどということも少ないでしょう。
夫婦が2人でいるところを見られるのが大型スーパーばかりというのは寂しすぎますし、
それでは服装の文化は育ちません。
放っておけば、惰性へ流れます。
楽なほうへ、楽なほうへ向かいます。
夫婦間で服装のギャップも大きくなります。
楽にいってしまったものを戻すのは難儀です。
そうならないためにも、今のうち、手を打っておきましょう。

どんなに妻は妻、夫は夫、違う個人ですと言い張っても、
多くの人には二人は一緒に見えています。
「お似合いのカップルね」という言葉が、
賛辞なのか、皮肉なのか、
二人並んで鏡を見たなら、すぐさまわかるでしょう。
お似合いの二人しか、長くは一緒にいられないものです。
願わくば、そのお似合いが素敵なカップルでありますように。

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2014年7月14日月曜日

スタイルとキャラクター

おしゃれの基本がわかって、
ある程度のことはできるようになったら、
次の段階はスタイルの確立です。
では、そのスタイルは何に基づいて確立すればよいのでしょうか。

ここで思いだしてほしいのは、
ファッション・アイコンと呼ばれている人たちのことです。
最近だったら、ケイト・モスにアレクサ・チャン、
少し前だったら、ジェーン・バーキン。
また、もっと古くはココ・シャネルなど。
もちろんほかにもたくさんいますが、
このようなファッション・アイコン、つまりおしゃれのシンボル的な存在の人たちには共通項があります。
それは、スタイルとそのキャラクターが一致しているということです。

たとえば、ケイト・モスもアレクサ・チャンも、ともにモデルですが、
私たちが思いだす彼女たちのスタイルは、
モデルとしてポーズをとった雑誌のグラビアに見られるスタイルではなく、
プライベートの着こなしのスナップの中での彼女たちの姿です。
スタイリングの完成度という点では、
雑誌の完璧なスタイルのほうがプライベートのスタイルより上でしょう。
しかし、私たちが常に知りたいと思うのは、
決して雑誌のスタイリングではなく、
彼女たちが自分のために、自分で作ったスタイルです。
なぜならそこには、ケイト・モスならケイト・モスの、
アレクサ・チャンならアレクサ・チャンのキャラクターがあらわれているからです。
私たちが興味を持つのは、彼女たちの確立されたスタイルだけではなく、
その完成されたキャラクターです。
そして、そのキャラクターのぶれのなさが、より一層、彼女たちをおしゃれに見せます。
このことを理解していないと、スタイルは全く意味のないものになります。

雑誌で提案されている完璧なスタイルをそのまますべてそろえて着たら、
それはそれなりにおしゃれです。
ブランドが発表した新しいスタイルを、一式そろえて着たら、
それもそれなりにおしゃれでしょう。
しかし、それだけでは何かが足りないと誰もが感じるはずです。
おしゃれだけれども足りないもの、
まさにそれがキャラクターです。

多くのデザイナーたちはそのことを知っていますから、
いつも自分のスタイルを崩しません。
完璧なコーディネイトよりも、
一番の新しさよりも、
ましてや値段の高さよりも、
その人のキャラクターの輪郭がはっきりあり、
それが誰に対しても印象的なものならば、
そちらのほうがおしゃれに見えるのです。

これは、アニメなどで使われる「キャラが立つ」ということと、
同じことです。
キャラが立つ、つまりその人のオリジナリティがはっきりして、
その他大勢にならない個性があること、
そしてそれが魅力的であること。
それがなければ、どんなに完璧なコーディネイトもおしゃれには見えません。

その人のキャラクターを際立たせるためには、
完璧な服と靴とバッグを用意しただけでは足りません。
髪形、メイク、言葉使い、生活、考え方など、
あらゆるものを含めてキャラクターは立ってきます。
それはころころ変わるようなものでもだめだし、
誰かと同じでもいけません。
逆に、キャラクターがはっきりしているのなら、
完璧なコーディネイトも、高価な靴もバッグもいりません。

どんな生活をしていて、どんなものを食べているか、
どんな音楽を聞いて、何を読んでいるか、
表情やしぐさ、
優しいか、優しくないか、
自分のことしか考えていないのか、そうではないのか、
どんな言葉で語るのか、
それらを含めて、私たちはキャラクターを評価します。

スタイルはキャラクターのあとにくるものです。
キャラクターあってのスタイルです。
私たちが憧れるのは、そのスタイルよりも、その人のキャラクターなのです。
どんなに高価なブランド物で上から下まで完璧なコーディネイトに身を包んでいたとしても、
決して憧れの対象にならない人がいるのはそのためです。

現在のジェーン・バーキンは、エルメスの「バーキン」を除けば、
決して高価なブランドに身を固めるでもなく、
完璧な髪形とメイクを施しているわけでもありません。
それでも彼女が憧れの対象になるのは、
311の震災の際にいち早くチャリティー・コンサートをする行動力と心を持った、その彼女のキャラクターのためです。

キャラクターとは関係のないところのスタイルは虚しいです。
ましてや、完璧なスタイルなど、何の意味もなしません。
反面教師はたくさんいます。
そうならないように気をつけましょう。
キャラクターも含めてのおしゃれなのだと、肝に銘じてください。
それ以外のものは、表層的な差異です。
魅力も影響力もありません。

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2014年7月7日月曜日

洋服のお直しについて

現在、ほとんどの人が既製服、
つまり、フランス語でprêt-à-porter、英語でready to wearの服を着ていることと思います。
そうなると、必ずしもその服が自分のサイズにぴったりであるとは限りません。
どちらかというと、合っていない場合のほうが多いでしょう。
現在、日本では、JISが定めたサイズ表示が一般的で、
たとえば、9ARなどと表示されています。
この場合、9号サイズのA体型(標準)、Rは身長が普通であるという意味です。
主なサイズは以下のとおりです。
9AR  身長158センチ、バスト83センチ、ヒップ91センチ、
11AR 身長158センチ、バスト86センチ、ヒップ93センチ、
13AR 身長158センチ、バスト89センチ、ヒップ95センチです。
身長は変わらず、バストが3センチ、ヒップが2センチ刻みで大きくなっていきます。
このサイズは婦人服全体に適応されるもので、
年代についての特別な考慮はありません。
ですから、年齢が上がるに従ってあらわれる体型変化に対応したブランドなどは、
このサイズを基準にして、バスト、ヒップ以外の寸法を変更していると思われます。
しかし、その変更の仕方はメーカー、ブランドでさまざまなので、
統一されたものはありません。

一方、外国のブランドはまたそれぞれの基準で服を作っています。
国によっても違いますが、外国の場合、シーズンによってもかなり差があります。
同じ36号サイズでも、ブランドによって、または同じブランドでもシーズンによって、
違うということはよくあります。
ただし、外国のものは日本標準体型とはかなり違ったバランスで作られていると思いますから、
日本メーカーとその他海外ブランドでは、サイズはまったく別物と考えていいでしょう。

これらさまざまなサイズ標準があるわけですが、
それらに体型がぴったりいつも合えばいいのですが、
そういうわけにはいきません。
となると、お直しが必要になってきます。

お直しで一番多いのは、パンツとスカートの裾丈でしょう。
パンツの場合はたいがい長目にできていますので、それをカットすることは可能です。
しかし、カットではなく、新たに裾を出すとなると、
折り返されている縫い代分しか出すことはできませんので、
出せたとしてもせいぜい1~1.5センチが限界でしょう。
パンツとスカートのお直しは、やろうと思えば自分でできます。
特にウールのパンツの場合は、ミシン縫いしなくても、裾をカットし、
アイロンで裾を折り直してまつり縫いすれば、それで問題ありません。
ただし、ジーンズの場合は、特殊なミシンと、それに合った糸が必要になりますので、
自分で裾上げをするのは難しいです。
スカートもパンツも、丈を決める場合は、必ずそれに合わせる高さのヒールの靴をはいて決定します。
特にパンツの場合は、フラット・シューズとヒールのある靴とでは、
ぴったりくるパンツ丈が変わってきますので、注意が必要です。
スカートの場合も、ひざ上のミニ丈を除いては、靴のヒールの高さによって、
似合うスカート丈は変わってきますので、必ず靴をはいた状態で裾丈を決めましょう。
 
そのほか考えられるのは、袖の丈詰めとウエストの大きさのお直し。
袖については、コートやジャケットで、袖口に複雑なあきがない場合は、こちらも可能です。
ただし、こちらは素人が直すには、少し難しいでしょう。
単純な一重の筒型のような袖なら可能かもしれませんが、
裏つきや、袖口にあきがある場合など、素人には難しすぎると思います。
また、スカートやパンツのウエストのお直しも、
一度、ベルト部分をほどかなければなりませんので、素人では難しいでしょう。

さて、お直しとはいっても、できないお直しもあります。
それは服の構造に関するものです。
構造を変更するお直しは不可能です。
根本的な構造をいじることはできません。

服の構造部分とは、トップスでは肩線、
パンツでは股上です。
スカートには、動かせないような構造部分はありません。
パンツの股上をいじると、パンツの構造は歪みます。ですから変えることはできません。
しかし、パンツの股上は、ファスナーがあったり、縫い代幅が狭いせいで、
ほとんど、それをいじろうとする人はいないだろうと思いますので、
問題にはなりません。
問題なのは、トップスです。

ほとんどのトップスの場合、肩線をいじることはできません。
(例外はあります。たとえばノースリーブで襟もない一重のブラウスや、
やはり襟のないラグランスリーブのブラウスのラグランのカーブをいじるなど)
肩線を変えるとすると、それに伴って、
襟ぐりと襟、袖ぐりと袖などが一緒に変更されることになります。
肩線、襟ぐり、袖ぐりが変わるということは、服そのものがもう違うものになるということです。

たとえば、以前流行った分厚い肩パッド入りのジャケットの肩パッドを取り除いて、
その分、浮いてしまった肩線を変更するということは、
服そのものを破壊することになります。
もちろん、やってできないことはありません。
できないことはありませんが、それをやった時点で、
もうそれは元の服とは違うものになり、服としての美しさは消えているからでしょう。
なぜなら、肩線をいじったということは、
そのデザインの意図を変えたということにほかならないからです。

コート、ジャケット、シャツ、ブラウス、ワンピースなどは、
肩がすべてのパーツを支えています。
厳密に言うと、肩ではなく、肩線の首側の支点によりすべてのバランスがとられています。
そこは、いわば服の肝とも言えるところです。
そこをいじってすべてのバランスを変えるなら、
もうその時点でそのデザインは終わりです。
それはお直しの域を出て、作り直しとなります。

逆に言えば、その肩線を維持するならば、
そのほかの部分は多少いじったところで、大きな問題にはなりません。
バストが足りない場合、ダーツを1つほどいてしまったとしても、
全体の構造には影響しません。

もしその服のデザインの意図を残したい、尊重した上で直したいのなら、
決して肩線をいじってはいけません。
では、肩線を変えたい場合、どうしたらよいのか。
それなら、最初からほどいて、すべてをやり直すべきです。
すべてをほどき、新しいパターンを上から置いて、裁断し直し、
新しく縫い合わせるならば、肩線は変えられます。
しかしそれをした時点で、もうそれは以前の服ではなく、
全く違う、新しい意図を持ったデザインとなります。
前のデザインは死に、
その上に、新たに意図を持った、
前とは違うデザインがあらわれます。

肩、つまりその構造さえいじらなければ、あとは割と自由に変更可能。
けれども、肩を変えるなら、そのデザインは終わり。
私のお勧めはデザインを尊重するか、
さもなくば、新たなデザインを新たなパターン、新たな素材で作ることです。
前の構造の上に無理やり新しい意図をのっけても、
うまくいきません。
それ以外の部分はどうぞご自由にお直ししてください。
ロングスカートをミニにしても、
長袖ブラウスを半袖にしても、
大きすぎるウエストを少し詰めても、
意図は変わりません。
デザインにも変えていいところといけないところがある。
覚えておくべきルールはこれだけです。 


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2014年6月30日月曜日

誰かと同じになりたいという欲望

人は、誰かと同じになりたいという欲望と、
誰かとは同じにはなりたくないという欲望との2種類の欲望を持っています。
人によって、その比率は異なり、
ほとんどすべてを誰かと同じになりたいと望む人もいれば、
絶対に同じようにはなりたくないと望む人もいます。

ファッション雑誌において、「セレブ」がもてはやされるようになったのは、
いつごろからでしょうか。
私の記憶では、90年代にはそんなことはなかったと思うので、
2000年以降だろうと思います。
デザイナーが注目を浴びる時代が終わり、
デザインそのものより、服をコーディネイトする編集能力が重視されるようになり、
その結果として、「セレブ」が出てきたのではないかと推測できます。

それ以降、ファッション業界は、
人の誰かと同じになりたいという欲望をより効率的に利用するために、
その誰かの対象として「セレブ」を持ちだしてきました。
ルックスも、仕事も、生きている環境も、収入も、
あまりに違うにもかかわらず、
多くの人が「セレブ」と同じものを持ちたいと望むようになったのです。

90年代、あるデザイナーのドレスを有名人が着たとしても、
それは深い意味を持ちませんでした。
しかし現在では、ブランド自身が、誰が自分のところのドレスを着たのかを、
積極的に宣伝に使います。

誰かと同じになりたいという欲望は、
限りなくその人自身を透明な存在へと導きます。
昔、「ルームメイト」というミステリーがあり、
ブリジット・フォンダが主演で映画化もされました。
「同居人募集」の広告を見てやってきた女性のルームメイトが、
主人公へのちょっとした憧れから、
髪形、服装などを主人公そっくりに変えていき、
最終的には、主人公を殺すことでその人格をのっとろうとするスリラーです。

映画の中では、主人公のすべてを真似するそのルームメイトは、
頭の狂った人物として描かれています。
どこまでも誰かの真似をしていく姿は、
一歩間違えば狂気です。
その映画を見て、どこまでも主人公を真似していくルームメイトのようになりたいと思う人は、
まずいないでしょう。
私たちがほんとうになりたいのは、
主人公をそっくり真似ていくルームメイトではなく、
憧れの対象であり、
真似されていく、
美しい主人公のほうです。

誰かと同じものを持ちたいという欲望を刺激され、
それに従って、コントロールされ続けている限り、
本当のおしゃれな人にはなれません。
誰かと同じを目指せば目指すほど、
その人は、代替可能でコントロールしやすい、意思がなく透明で、
名前のない存在になります。
そんな存在は、おしゃれではありません。
おしゃれな人はコントロールなどされません。

おしゃれな人と思われるためには、
誰かと同じではない部分を探し、作っていく必要があります。
「真似したい私」ではなくて、
「真似されたい私」でなければなりません。
コピー品が決して美術館に飾られることがないように、
オリジナルであることは、おしゃれにとっても重要なことなのです。

名前も、顔も、趣味も、嗜好も全く同じ人間など、
この世にいません。
その、この世に1つのユニークな存在を、
今、世の中に存在している似たような多くのものの中からかき集めて、
ユニーク、つまり唯一のものにしていく、
その作業がおしゃれを作ります。

「真似されたい私」になるためにはどうしたらよいでしょうか。
まずは自分を知ること、
そしてその他の世界を知ること、
そして何よりも、
刺激され続ける誰かと同じになりたい欲望から自分を切り離すことが、
それを可能にさせるでしょう。

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2014年6月23日月曜日

ネットワークを作る

たとえば、オートクチュールのコレクションで発表されたばかりの多くのスタイルは、
誰が見ても文句なく、シックで、スタイリッシュで、完璧です。
その理由は、もちろんデザインが優れているからなのですが、
優れているのはデザインのみでなく、そのスタイリングも同じように完璧です。

通常、デザイナーは服をデザインしますが、
それをスタイルとして完成させるための、
靴、バッグ、その他小物についてはそれぞれデザイナーがいて、
ショーにおいては、それらばらばらのアイテムをまとめてスタイリングする人がいます。
彼らは、いわばあらかじめ1つのテーマに向かって設計されたパーツを、
正確に配置する係です。
これらのパーツは必ず方向性を持ってデザインされていますから、
どれをどう並べても、それなりのスタイルが完成するようになっています。
そしてそれこそが、私たちに「おしゃれ」であると感じさせる点です。

それらはすべて1つのテーマにそって、
色、素材、シルエット、モチーフ、柄が決定されています。
もしそこからはみ出すものがあったら、
最終的にはじかれます。
合わない色、合わない柄は、もうこの時点ではありません。
つまり、おしゃれに見えるためには、1つの方向性なりテーマにそって、
スタイリングを組み立てることが重要なのです。

ほとんどの人は、
いくつかのブランドの、
もうすでに持っている古いアイテムと新しく付け足したアイテムを、
ばらばらの時期に購入したものを使って、
1つのスタイルを完成させようと試みます。
これは、あらかじめ1つの設計図のためにデザインされたパーツを組み合わせるよりも、
はるかに難しい作業です。
もうすでに立派なお城ができるようにすべてのパーツがそろったレゴを組み立てるよりも、
形も色もメーカーも違う、統一規格のないブロックでお城を作るほうが、
はるかに難しいのと同じことです。

それでもなお、スタイリングが1つのテーマにそっているということは、
おしゃれに見せるためのポイントです。
私たちは、あるものの中で、何とかそのテーマを1つにそろえていかなくてはなりません。

そのために使うテクニックが、
この1つのスタイリングの中でネットワーク作りをするというものです。
それは色でも、形でも、モチーフでも、ディテールでも、素材でも、
何でも構いません。
何の工夫もしなければ、
ただ乱雑に集めてきた、意味のつながりのないパーツにすぎない、
それぞれのアイテムをつなぐために、
そこに1つのテーマを入れ込み、
ネットワークとしてつなげることで、
統一感を出します。

例えば、モチーフならモチーフを1つ決めます。
水玉と決めたなら、
頭の先からつま先までのあいだに、水玉モチーフのものをちりばめます。
首元のスカーフ、靴下など、同じ水玉でつなげます。
つなげると言うからには、
それはワンポイントではありません。
最低2か所は同じもので統一します。

たとえば、オートクチュールでしたら、
コートと帽子と靴の素材を同一のもので作ったりします。
そのほかにアクセサリーとしてパールを選ぶのなら、
パールのネックレス、パールの指輪、
パールの飾りのついたバッグをそこへ持ってきます。
オートクチュールのように完璧にはいきませんが、
私たちはこのテクニックを真似ることはできます。

そしてこれをするために私たちがやるべきなのは、
建設的なワードローブ構築です。
気まぐれ、一目ぼれ、衝動買いを繰り返したのでは、
これを作ることはできません。
自分が星の形が好きだとしたら、
星型のピアス、星型のスタッズがついたバッグ、
星の柄のスカーフを探して歩きます。
ターコイズブルーが好きだとしたら、
ターコイズのネックレス、ターコイズブルーのカシミアのストール、
ターコイズブルーのバッグを探します。
そうして少しずつ、自分のワードローブを完成させます。

これができるだけで、
スタイリングは驚くほど洗練されて見えます。
私たちは他人の目に統一感のある印象を与えるだけで、
おしゃれであると認識されます。

私たちが何となくおしゃれに見える、
その何となくは、こういうことの積み重ねによってでき上がります。
欲望のまま集めてきたものでは、こうはいきません。
もともと、1つのものを収集する癖のある人は、
もうすでにできているかもしれません。
しかしそうでないならば、自分のワードローブを見直し、
これから何を買い足せばいいのか考えましょう。

同じものによる統一感は、それを見る相手に、
安心や信頼できる感じを与えます。
おしゃれであると同時に信頼できる人、
そしてそのことによって印象深い人になります。
2回目に会ったときに、
あなたが初回にしていたのと同じ星のモチーフをつけていたなら、
信頼はより深まるでしょう。
恒星のように、動かないというその行為は、
相手の心に深くくさびを打ち込みます。

輝く星であり続けるためにも、
ぜひとも連続し、統一した、ネットワークを作ってください。
その鳥のブローチが、
そのバラの形のピアスが、
あなたを次の世界へつなげていきます。
なぜなら相手はそれを忘れることができないから。
忘れることができないということは、
つながっているということです。

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2014年6月16日月曜日

アートとファッション

ファッションはしばしば、アートに近づこうと試みます。
しかし、ファッションは決して芸術にはなれません。
半年やそこいらで、経済的な価値が半減してしまうようなものは、
芸術ではありません。
それにもかかわらず、またはそれであるからこそ、
ファッションはいつでもアートに憧れています。

企画展か、または服飾美術館以外で、
服やその周辺の小物が展示されることはありません。
どんなにすぐれたデザイナーの作品(商品)でも、
ミケランジェロやラファエロが展示されている、その隣の部屋に並ぶことはありません。
芸術は唯一で、永遠のものを目指しますが、
ファッションは今、または短期間有効で、ほとんどのものは唯一ではないのです。

無理とわかっていながらも、
ファッションはアートに憧れます。
そして、その試みは、たとえばモンドリアン・ドレスのように、
モチーフを服そのものにプリントするか、
または、人が日常に着ることを全く想定しない、服のオブジェ化によってなされます。
繰り返し行われるその試みは、その多くが失敗です。
それらは芸術ともみなされず、
かといって、人が着るわけでもなく、
どちらともつかない、中途半端な存在として、最終的には忘れ去られます。

なぜこれほどまでにファッションがアートに憧れるかというと、
やはりファッションも唯一で、永遠でありたいからです。
実際のところ、やっているのは短期間の流行による刹那の絶対的な肯定と、
必ず売れ残りが出る大量生産の容認にもかかわらず、
唯一で、永遠に憧れるなんて、
身の程知らずもいいところです。

絶対に芸術にはなれないファッションですが、
そのかなり近いところまでいって、商品から作品の領域まで踏み込めたものは、
多くはありませんが、存在し、それらは世界各国の服飾関係の美術館や展示で見られます。

ヴィオネのプリーツのドレス、
ディオールのバージャケットに代表される、ニュールックのスタイルなどは、
その代表でしょう。
確かにそれらは、今見ても色あせることなく、
見る人の鑑賞に耐え、服装における美の表現の一形態として、
服装史に刻まれるものです。
しかしそれらは全体のほんの一部です。
100万枚の1枚にあるかないかの確率です。

けれども、ファッションが唯一と永遠に憧れ、それを目指すことは、悪いことではないです。
なぜなら、服を着る人それ自体は、いつだって唯一の存在であり、
永遠目指すものだからです。

大量生産主義者は、多くの人があたかも同じスペックの存在であるかのように振る舞います。
しかし人間が存在してから、全く同じ顔形、体型の人など、
一度も存在したことはないのです。
私たちは、大量生産主義者のおしつけで、同じ形、色、素材の服を受け入れていますが、
間違っているのは私たちではなく、おしつけている大量生産主義者です。

服装史を振り返ってみても、こんなに同じ服が大量につくられ、
それらを選ばざるを得ないような時代はありません。
なぜなら唯一であり、永遠を目指す私たちにふさわしいのは、
まさに唯一で、永遠の服だからです。

私たちはそれぞれが、唯一の輝く星と同じです。
それぞれが、おのずと輝く存在です。
月のように、太陽がなければ輝かない存在ではなく、
太陽のように、みずからが輝く存在です。
そのことに気づいたなら、
横並びの、均質化した、大量生産の服は、
だんだんと選べなくなるものです。
そのときに、アートに憧れ、それを目指すファッションは、
大いに役に立つでしょう。

アルチュール・ランボーが
海と太陽のあいだに永遠を見つけたように、
私たちそれぞれが自分の中に永遠を見つけたならば、
もう他人の光を必要とすることはありません。
そうなったときに、初めてスタイルは永遠となるでしょう。
それは、美術館に飾られることこそありませんが、
生きているアートです。
ファッションは芸術ではありません。
それはいつでも、生きているアートのための、忠実なしもべなのです。

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2014年6月9日月曜日

クローゼットの見直しを

自分の持っている洋服をすべて正確に把握している人は、
そう多くはないと思います。
ほとんどの人が見れば思い出すけれども、
目に入るまではあることさえ忘れてしまっている服が何着か、
あるいは何着もあるはずです。

多くの人が持っている服の2割から3割程度しか、
実際には着ていません。
1年のうち1度も日の目を見ない服も何枚かあるに違いありません。
そうなると、その服がどんなに素敵なものであったとしても、
それは死蔵品であり、役には立ちません。

そうなってしまうことの大きな原因の1つに、
服の収納の仕方の問題があると思います。
ウォークイン・クロゼットのように、
全体がすぐに見渡せる収納を持っている人は、
今の日本の住宅事情では少数派でしょう。
ほとんどの場合、家に備え付けのクローゼットか、
または後から購入したタンスや衣装ケースに収納することになると思います。

すべてを見渡せない収納の問題点は、
まさに「すべてが見えない」ということです。
探さなくてはわからないようなものは、当然のことながら、
あまり着なくなります。
そしてよく着る服がよく目に着く場所に収納され、
着ない服は見えないところへ押し入れられるという悪循環に陥ります。
人はその存在が見えないと、
あたかもそれがないかのごとく認識してしまう傾向があるようです。
けれども、見えないからといって、そのものがなくなってしまったわけでは決してありません。

この悪循環を避けるためにも、
クローゼットの見直しをお勧めします。
まずは自分が持っている服をすべて把握することから始めるのです。
一度にすべてが難しかったら、春夏ものと秋冬ものに分けてやればよいでしょう。
とにかくすべて出してみて、
持っている服をアイテム別に何点所有しているのか確認します。
具体的に書き出してみましょう。

その次に、それらを色別に分類します。
ブルーならブルーとそのグラデーションに分けます。
まずは色分けなので、アイテムは混ざっても構いません。
重要なのは同じ色の仲間であるかどうかです。
(色に詳しいひとは、彩度と明度に分けてみてもいいでしょう)
白なら白、黒なら黒、そしてどのグループにも入らない色とに分けます。

このときに、多くの色を持っている人は、
死蔵品も多いはずです。
色が多ければ多いほど、コーディネイトは難しくなり、
結局、着ないものがふえていきます。
余裕があれば、それらをすべて写真に撮り、
トランプカードのように印刷して、どれとどれがコーディネイトできるか考えてみるのもいいでしょう。
コーディネイトがどれだけ難しいか、わかるはずです。

色別に分けたら、その色の中でのアイテムの偏りを把握しましょう。
たとえば、ブルーならブルーのコート、ジャケット類、インナーとボトムスの割合を見てみます。
いつもコーディネイトがうまくできなかったり、悩んでいるのだとしたら、
その中のどこかに偏りがあります。
インナーばかりでボトムがないであるとか、
ジャケット、コートばかりでインナーが少ないであるとかです。
基本はすべて1週間分の7枚。
ボトムやジャケット、コート類はこれより少なくても問題ありません。

自分がメインでいつも着る色について、アイテムの偏りをチェックしたら、
その他、どこのグループにも入らない色のものを、
これらのメインのグループに入れて、コーディネイトできるかチェックしましょう。
ここで、どこにも入りようのない色のものが出てくるでしょう。
ワンピースのように、コーディネイトの必要のないものなら問題ありませんが、
中途半端な色のジャケットなどは、ほとんど着る出番がないでしょう。

ここまでは色による仕分けです。
色がある程度そろったら、もう着られないシルエットやサイズについて、
チェックしてみましょう。
これは人それぞれ選ぶ基準は違うと思いますので、
感覚や気分で選ぶことになると思います。

ここまでやってくれば、もう絶対に着ることのない何点かが選びだされるはずです。
それらはコーディネイトができない、
シルエットが古すぎる、
サイズが大きすぎ、または小さすぎ、のどれかになるでしょう。
また同時に、
足りないものも見えてくるでしょう。
たとえば、グレーのジャケットやコートはあるけれども、
夏用のボトムはない、であるとかです。

死蔵品がふえてしまうことの多くの原因は、
現状を見ない、そしてその結果、把握していないからです。
毎日、目には入らなくても、
そこに存在するものは、誰かがどうにかしない限り、永遠に存在し続けます。
それは見えないかもしれませんが、
あるというだけで場所をとり、
メンテナンス費用がかかり、
何より、着ていないものを持っているという、罪悪感にも似た思いが、
その人のエネルギーを奪い続けます。
会社が在庫を持っていれば税金がかかるように、
使わない在庫を保持し続けていれば、
エネルギーはそれだけ消費されるのです。

存在しているにもかかわらず、見て見ぬふりをして、
表面だけを取り繕ってみても、
存在は消えないどころか、
影響を与え続けます。
見えないモノが持っている力を、
低く見積もってはいけません。

着ていない服を把握する、
そして死蔵品をなくし、
持っていて、着られるものは実際に着て、
着られなくなったら処分する。
そうやって、クローゼットの風通しをよくし、
無駄なく循環するようにしましょう。
それは大きなエネルギーの節約です。

節約したエネルギーはファッションとは違うことに使ってください。
人生には、ファッションより重要なことが常にたくさん存在しています。
それらのために時間やお金を使って、自分を育て、成長させてください。
なぜそれを勧めるかって?
だって、服だけ素敵な人よりも、
服より中身が素敵な人のほうが、
よっぽどおしゃれだと私は思うから。
そして多くのデザイナーが、同じように考えているからです。

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