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2015年4月1日水曜日

ファッションとは変化

ファッションとは変化です。
変化が常態です。
ですから、変化が止まったら、
それはすなわちファッションの死を意味します。

人もそれぞれ変化していきます。
人の変化は成長と呼ばれます。
年齢が若ければ若いほど、
1年の成長の幅は大きくなります。
成長の速度と距離は、人によってそれぞれです。
同じように、何歳まで成長し続けるのかも、
人によって違います。
多くの人は、年齢が上がれば上がるほど、
その成長の幅を縮めていきます。

時代に即して変化していくファッション、
年齢とともに変化していく人、
その交点にその人のワードローブがあります。
成長の幅が大きい人の場合は、
ワードローブに流行が大きく反映され、
成長が止まったならば、
ワードローブが流行に影響される割合はぐっと少なくなります。

シルエット、色、素材にも流行があり、
それは少しずつ変化していきます。
プルミエール・ヴィジョンのブックを見るまでもなく、
60年代の色と、2000年代の色と、2010年代の色は違います。
同じように人も、年齢とともに好きなシルエット、色、素材が変わっていきます。
そして、そこへ変化が遅い、物質としてのでき上がった服が入り込みます。

物質としての服の変化は、いわゆる経年による変化、
また洗濯による劣化、着用による摩耗や着用回数は、
もともとの素材の性質によって異なります。
当たり前のことですが、
着用回数が多いものは、劣化のスピードも早くなります。

活発な子どもは成長の度合いが大きく、
身体の変化が激しいので、その成長にふさわしく、
古いワードローブから脱皮していきます。

次にやってくる若い時代は、
精神的な成長の度合いが著しく、
それに伴いワードローブを変化させます。
誰でも二十歳のころの服を、
30歳になったとき、同じように着たい気持ちにはなりません。

若い時代が過ぎ、大人として成熟していく段階で、
成長の速度の個人差が大きくなります。
そこで成長をとめた人のワードローブは、
進化することを停止させます。
もはや服を着ることは生活に必要な行為であるだけであって、
ファッションと無縁になっていきます。
それは別に悪いことではありません。
生き方の1つです。
その生き方を誰かに否定される筋合いはありません。

しかし、もしファッションを目指すなら、
変化を受け入れなければなりません。
変化を拒むもの、恐れるものは、
ファッショナブルにはなれません。

時代が変わっていくならば、
それにあわせて進化していく。
若い肉体にもう戻れないとしても、
鍛えて維持をする。
常に精神を若々しく保ち、
過去に執着しない。
これらは、身体も心も、
そして物質的にも身軽でなければできないことです。
重くなりすぎたら、素早く変化に対応することは、不可能です。

物質的な服の劣化を見極めながら、
あくまで身軽に、
一度決めたことを葬り去る勇気と、
新しいことにチャレンジする進取の精神とを持ち続けるならば、
いつでもファッショナブルでいることは可能です。
それは実際の肉体年齢の問題ではありません。

ファッションとは変化です。
ですから、ファッショナブルな人とは、
変化に対応し、
進化し続ける人です。
他人によるレッテル貼りや、意味づけ、決めつけなどの、
多くの制止を振り払って、
走り続ける人こそが、
永遠におしゃれな人です。


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★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。


2015年3月15日日曜日

ジャンプスーツ、またはつながっているということ

ジャンプスーツとは通常、
トップスと、それに伴うパンツのボトムがつながった状態のものを呼びます。
トップスがスカートとつながっていれば、
それはワンピースやドレスですが、
パンツとつながるとジャンプスーツ、オール・イン・ワンなどと呼ばれることになります。

ジャンプスーツがここへきて注目されていますが、
何もこれは新しい形というわけではありません。
作業着としての「つなぎ」や、
赤ちゃんのロンパースなど、
形としては以前からありました。
ただそれがモードに昇華されるのには、
多少の時間がかかりました。
そして今やっとそのときが来ました。

特徴を一言でいえば、つながっている、ということです。
西洋の衣服において、この「つながっている」ことは、しばしば重要視されます。

西洋の女性の衣服の歴史は、
布に穴をあけてそこに頭を入れただけの貫頭衣から、
ギリシャやローマ時代の生地を身体にまきつける時代を経て、
常にトップスとボトムスがつながったドレスという形で発展してきました。
やっとジャケットとスカートという形が見られるようになったのは、
イギリスのエドワード時代あたりではないかと思われます。
(ここは、はっきりした資料が見つけられませんでしたので、
間違っているかもしれません)
しかし、いくらジャケットとスカートに分かれたとはいえ、
それはやはりひと続きのつながりがあるもの、
つまり上下が同じ生地によって作られるスーツでした。
トップスとボトムスに全く違うものをあわせるようになったのは、
せいぜい100年あたりの、ごく最近のことです。
上と下はつながっている、
または分かれていたとしても同じ生地で作られるべきものというのが、
西洋の衣服の暗黙のルールです。

例えば、日本の着物は上下がつながっている、いわばドレスです。
それを上下、別々にすることもできますが、
そこで上と下、違う生地を持ってきたとしたら、
それは既に着物ではなくなるでしょう。
上と下を別にしてしまったら、
着物の体をなさなくなります。
着物にとって、つながっているということは重要です。
それと同じことが、西洋の衣服についても言えます。

西洋の衣服においての、このつながっていることの重要性は、
現代のスタイルでも多く見られます。
格が高く、オーソドックスなスタイルは今でもなお、
ドレス、またはスーツです。

その点から考えると、
ジャンプスーツは、それが連想させるものが作業着としての「つなぎ」であったとしても、
「つながっている」という条件を満たしているからには、
格が高いものの仲間であると考えられます。
素材、パターンを洗練させたならば、
それはドレスに匹敵するほどのスタイルとして認められるでしょう。

ジャンプスーツはドレスより活動的であるにもかかわらず、
つながっているという条件は満たしているので、
ドレスと同じだけの格があり、
十分におしゃれなアイテムです。
同じ素材のジャケットを上から羽織るならば、
そのまま正式な場へ出席できます。
これを利用しない手はありません。

ただし、誰もが思い浮かぶジャンプスーツの欠点があります。
それはトイレでの問題です。
トイレに行って、あれをいちいち上から脱ぐのかと考えると、
着ていく場所は選ばざるを得ません。
その点さえ解消できるならば、
ジャンプスーツはこれからの時代、より利用されるようになるでしょう。

暗黙のルールである、「つながっている」ことは、
いまだ至るところで散見されます。
例えば、帽子とコート、
コートとバッグ、
バッグと靴、
コートと靴など、
同じ素材、同じ柄を持ってくるテクニックは、
ハイブランドでよく見られます。
それらいちいち、はい、これは同じ素材で作られていますよなどと、
説明されることはありませんが、
そうすることによって、彼らは自分たちのスタイルの格を上げるのです。

誰も言葉にはしないけれども、
ひそかに守り続けられているルール。
これを取り入れるだけで、
平凡なスタイルが、非凡なものになります。

ジャンプスーツはそれの1つの例に過ぎません。
それに気がついたなら、
私たちは自分自身で、「つながっている」ことを作ればいいのです。
帽子と靴でも、
コートと帽子でも、
靴とストールでも、
つながりを取り入れます。
そのとき、今まで無自覚だったものが、
初めて意味を持ち始めます。
意味がないと思っていたものは、
実は意味があったと知ります。

おしゃれであるということは、
無自覚でなされる選択からの卒業です。
ひとつひとつの選択に意味を与えること。
そこに必要なのは意図することです。
意図があるということが、
おしゃれについて考えている人と、
そうでない人との違いなのです。

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2015年3月1日日曜日

70年代リバイバル

ファッションの流行は、
周期的にどこかの時代のスタイルを再び蘇らせ、
進化させることにより、
らせん状に発展していきます。
リバイバルはそのほとんどが、
多くの人が忘れたころにやってきます。
2010年代に1970年代がリバイバルされるということは、
およそ40年ぶりということでしょうか。
多くの人がそのスタイルを忘却するのに必要な時間は、
十分にありました。

70年代の特徴はいくつかあります。
若者の普段着であったデニムを使ったアイテムの一般化、
作業着のモードへの昇華、
ヒッピーやボヘミアンスタイル、
そしてエスニックです。
そのどれもがいわゆる「中心」から外れた周縁、または辺境の存在。
社会的に認められていなかった、といってもそれは欧米での話ですが、
若者、
労働者、現在はロマと呼ばれるジプシー、
社会の規範へ反抗するヒッピー、
欧米以外の文化圏の人々などです。

ファッションは、その中心と周辺を入れ替えたかのように、
外側からの影響で内部が埋め尽くされたのでした。
それまで価値を認められていなかったもの、
切り捨てられていたものの価値が、一気に上がったのです。

そうなる前には、例えば1968年のパリでの五月革命のように、
学生運動が世界中に広がり、
新しい世代が新しい価値観を持ってあらわれてきたという事実がありました。
常に新しい流れを取り入れるファッションが、
このような社会的な流れに影響を受けるのは当然です。

また、1970年には日本の高田賢三がパリにショップをオープンし、
欧米以外の文化圏の影響を受けた、大胆な色遣い、柄と柄の組み合わせなど、
若く、しかも「欧米ではない」という価値観を示しました。
(注:この時代、東欧の文化も、
イギリス、フランスなど西ヨーロッパの国から見ると、
異国情緒のある文化でした。ボヘミアンスタイルなどは、東欧の影響を受けたスタイルです)

これら、「中心」以外の存在のパワーが中心を凌駕した結果生まれたのが
70年代のスタイルです。
スタイルの特徴としては、
ベルボトムやパンタロンなど、裾広がりのパンツ、
素材としてスエード、ヴェルヴェット、デニム、
細部の装飾としてフリンジ、フリル、
ロングスカート、
パッチワーク、
フリンジ、
刺繍、
ひもやマクラメ使い、
月の女神ダイアナ風サンダル、
などです。

2010年代、70年代がリバイバルされていますが、
もちろんこれは1970年代のものそのままではなく、
アップデートされています。
パンタロンのシルエット、
サボという原型、
スエードという素材はそのままに、
それぞれがかつてのそれより、
より手の込んだ、より洗練された、
若者ではなく大人にふさわしいものになっています。
ただ労働者のジーンズを着るのでも、
ただ東欧にいた女性たちがはいていた、
あのロングスカートを借りてきてはくのではなく、
それぞれの足りないところを補い、
モードと呼ぶのにふさわしい豪華な素材、
繊細な手仕事を施すことにより、
雰囲気は70年代のままに、
全くの別物に仕上がりました。

では、なぜ今70年代なのでしょうか。
若者、そして異質な文化という性質を、
なぜ今の時代、再現しなければならないのでしょうか。
それは今の時代の流れの終わりが見え始めたからではないかと、
私は考えます。

文化の黄昏の時代、
発展が行き止まり、これ以上の先が見えなくなったとき、
私たちに必要なのは「若さ」です。
それは年齢の若さではなく、
精神の若さ。
新しいことにチャレンジし、
どんな変化にも対応できるしなやかさ、
そして何よりも未来を夢見る力、
そんな「若さ」の持つ力を、
私たちは再び欲します。

そして異質な文化を取り入れるのは、
あたかも輸血するかのように、
違う血を入れることによって、
自分たちの文化を若返らせようとする、
無意識のあらわれです。

では、2010年代を生きる大人の私たちは、
この70年代リバイバルをどのように取り入れたらいいのでしょうか。
まずは、大人にふさわしいものを選ぶこと。
二十歳前後の子たちと同じような、
単純なそのものの70年代スタイルはあえて避け、
生地なり、細部なりがアップデートされたものを選びます。
古着屋で手に入れたような、本物の70年代のものよりも、
今にふさわしいスタイルに改善され、
そこはかとなく70年代を感じるぐらいのものにおさえたほうが、
現在持っているワードローブに取り入れやすいですし、
何より違和感なく着ることができると思います。

そして最も大事なのは、精神的な若さです。
かたくなで、変化を嫌い、
好奇心のかけらもなく、
何事にもチャレンジしない態度は、
決して若いとは言えません。
新しいものを取り入れ、
知らないことを知ろうとし、
上からものを言うのではなく、
何かを学ぼうとする姿勢があってこそ、
70年代スタイルは生きてきます。

さらに、異質な文化への好奇心と理解。
異質なものを排除する心は、
70年代の若者たちが最も嫌ったものでしょう。
もし彼らが「日本」という異質な文化を持つ国から来たものを排除したならば、
海を渡った日本のケンゾーはパリで成功しなかったはず。
パリが異質な文化を背景に持つケンゾーを受け入れたように、
ファッションを愛する人々は、
異質な文化にみずから近付き、
理解し、受け入れなければなりません。
それは、ファッションの1つのエレメントです。

ファッションはいつの時代も、
異質な文化を取り入れて発展してきました。
それは昔も今も、そしてこれからも変わりありません。
70年代スタイルとは、いわばそのシンボル的なスタイルです。

おしゃれであるとは、
精神が若いこと、
そして、異なるものや人への好奇心を持ち続けることです。
その2つがあるならば、
70年代スタイルを着こなすのは、
いとも簡単であるはずに違いありません。




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2015年2月23日月曜日

お知らせ

今週のブログアップはお休みいたします。
次回は3月1日を予定しております。

また、3月からはブログアップを
毎月1日、15日の、月2回に変更する予定です。

以上、よろしくお願いいたします。

2015年2月16日月曜日

「ハレ」の日の衣装(例えばデートの場合)

日常のことを「ケ」、
そしてはれのの日のことを「ハレ」と言います。
現代は、この「ハレ」と「ケ」のうち、
「ハレ」の日が少なくなり、
どこまでも続くような、変わらない日常が1年の多くを占めるようになりました。
それでもまだ、「デート」というものは、この数少ない「ハレ」の日であると思います。
今回は、「デート」を例にとって、
どんなふうにその日の服装を組み立てていったらいいか、
考えてみることにします。

考慮する必要があるのは以下の点です。
季節、
場所、
時間、
かかわる相手、
目的です。
考え方としては、自分が主人公の映画のワンシーンで、
自分が監督で、自分が衣装デザイナーです。
デートのシーンが絵になるものになるように心がけます。

まずは、「デート」という1つのシーンがどのような季節の、どこであるのかを考えます。
例えば季節が同じ早春だとしても、
それが都会なのか、海なのか、山なのか、田園なのか、地方なのかによって、
着るものは変わります。
なぜなら光の加減も、背景となる風景も違うからです。
どちらかというと、都会はその点で許容範囲が広いです。
特にそこが観光地であった場合、どこでも同じ服装の観光客は許されます。
しかし、幾ら都会の許容範囲が広いとは言え、
高級ホテルのラウンジで映えるスタイルと、
湘南の海辺のレストランに似合うスタイルは違います。
都会であったら、ガラスとコンクリート、凝った照明ですが、
海辺であったら、まずは海と輝く真昼の太陽、または夕陽や、
灯台に照らされる海などになるでしょう。

また、デートなのですから、季節感無視のスタイルもおかしいです。
お気に入りの映画やテレビのドラマを思い出してください。
主人公は、季節に合った服装をしてあらわれます。
暑さ寒さに対する対応が優先の日常とは違います。

次に時間です。
朝、昼、夕、夜などの時間帯のうちどこなのか、
または半日なのか、1日なのかを考えます。
午前中、レストランでブランチをとるのと、
夜のディナーを楽しむのとでは、装いは変わってきます。
午前中だったらよりリラックスした感じで、
夜だったら、少し緊張感のある、よりおしゃれした感じがふさわしいです。
また、1日にかけてのものであったら、
1日のうち、どのように衣装を変えていくか、考える必要も出てきます。

季節、場所、時間がわかったら、
次は相手との関係について考えます。
初めてデートする相手と、1年付き合った相手と、
結婚した相手では、選ぶスタイルは違ったものになるでしょう。
初めてデートする相手だとしたら、それなりにきちんとした、
かつ自分らしさが伝わるスタイルで、
付き合って何年もたつ相手なら、よりリラックスした、カジュアルな雰囲気になるでしょう。
けれども、まだここで決定することはできません。

最後に最も重要なのはその日のデートの目的、そして意図するところです。
初めてのデートなら、自分を知ってもらうためでしょうし、
誕生日のデートなら、どちらかをお祝いするためです。
自分を知ってもらうために、その方法としてカジュアルな普段着のスタイルを見てもらうのか、
それとも、かしこまった感じのよそ行きスタイルを見てもらうのか、
それは自分でどちらを意図するかによります。
また、誕生日のお祝いを三ツ星レストランでするのか、
ドライブをしてから海辺のレストランでするのか、
雪深いゲレンデ近くのホテルのレストランでするのかによっても変わってきます。

さて、これら考慮すべき点を出そろったら、
次は自分の持っているワードローブで、どうやってそれを表現するかの問題です。
現在、多くの人のワードローブは、
普段着、通勤着、遊びへ行くときのスタイルで構成されています。
「ハレ」の場面が少ない生活をしていると、
そういった日のためのワードローブは一切持っていないということも多いです。

しかし、人間の歴史のどの時代、どの地域においても、
「ハレ」の日のための衣装というものは存在しています。
私たちが「貧しい」と呼ぶその地域でさえ、
私たちの日常着よりはずっと豪華なお祭り用の衣装一式を持っています。
何か特別の日のために「着飾る」という行為は、
人間の長い歴史の中で、たった一度も忘れられたことはありません。
それは根源的な私たちの無視できない欲動です。
それは抑圧されればされるほど、反動となってあらわれます。
たくさんの服を所有したり、
買っては捨ててを繰り返すのもその1つのあらわれです。

「ハレ」の日には「ハレ」の日にふさわしい服装をするのが人間の文化です。
どんなに貧しいと呼ばれる地域や国々でも、それはできるのです。
確かに現在の生活の中では、大きなお祭りも夜通し祝い続けるような結婚式もありません。
であるからこそ、自分の生活の中に「ハレ」の日を作らないと、
人間としての心が枯れていきます。

「ハレ」の日のための衣装が何もない場合、
自分なりに工夫して、何かを付け加える必要が出てくるでしょう。
それがダイヤモンドのピアスなのか、
ラインストーンのネックレスなのか、
シルクサテンの花柄のドレスなのか、
黒いスエードのハイヒールなのか、
それはその人のライフスタイルや年代にもよります。
学生であれば学生なりにできる範囲での、
また年齢を重ねたのであれば、それにふさわしい選択というものがあります。

そして、洋服ではありませんが、
日本人であれば、それが着物だということもあるでしょう。
着物を着るだけで、それは十分に「ハレ」の日です。

ポイントは非日常です。
普段は着ないものです。
「ハレ」の日のためだけに用意された、
日常を超える衣装。
毎日のためのものではなく、
1年にたった数日の、特別な日のためのもの。
そんなものがあるだけで、
私たちは退屈な日常から抜け出すことができ、
着飾りたいという人間の根源的欲求が満たされます。

今回は例えばデートの場合でしたけれども、
何もデートに限ったことではありません。
音楽会へ行くとき、
予約をしてディナーをレストランでいただくとき、
または自分が主催して誕生日パーティーを開くとき、
そんな、普段着ではないときのためだけの衣装があることで、
私たちのモノクロの日常が、いきなりカラーに変わるのです。

観客でいることはやめて、
主人公になりましょう。
誰かが主人公の映画もドラマも雑誌も適当にしておいて、
自分が主役の物語を紡ぎましょう。
映画のワンシーンのように、
シーンをつなぎ合わせれば、
自分だけの物語ができ上がります。
主人公の「ハレ」の日の場面のために、
衣装を用意してあげましょう。
すべてこの世は舞台ですから。

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2015年2月9日月曜日

服に飽きるということ

一般的に、柄物の服や、
デザイン性の高い服は飽きやすいと言われています。
また、そんな服ではなくても、
あるとき、その服はもう飽きたと感じることがある人は、
多いと思います。
その「あるときは」、必ずしも決まった年数であるとか、
決まった回数を着たからではなく、
ふいにやってきます。
何の前触れもなく。

飽きてしまった服をよみがえらせるためには、
いくつかの方法があります。
まずは、少しその服を着るのをやめて、寝かせておくという方法。
余りにもしょっちゅうある服ばかり着続けると、
確かに飽きがやってきます。
そういうときは、一定期間、その服を着るのをあえてやめます。
そして、忘れたころに取り出してみると、
また新たな気持ちで着ることができます。

次に、その飽きた服をいつもの組み合わせではなく、
違うものと組み合わせて着るという方法。
知らず知らずのうちに、同じ服を同じ組み合わせで着ているものです。
それはその組み合わせが最も自分にしっくりくるからでもあり、
着やすいからでもあるでしょう。
その場合、服に飽きたというよりは、
コーディネイトに飽きたということなので、
そのコーディネイトを変えてみると、
それだけで気分は変わります。

また、流行っているものなどの場合は、見慣れたことが原因で飽きがきます。
私たちは、自分の服だけではなく、
同じ服、靴、バッグを持っている人を見るだけで見飽きていきます。
余りに流行したものが、すぐに嫌になるのはそのためです。
私たちは、ある一定量、目に同じ情報が入ってくると、
それ以上、受け付けなくなる性質を持っています。
ですから、街に出ればすぐ目に入るような、
はやりのものは極力買わないということも、
飽きないための方法です。

しかし、その「飽きた」ということの原因を深く見ていくと、
それは服のせいではありません。
私たちが本当に飽きているのは、自分たちの単調な生活です。

決まり切った日常で、
ハレとケの区別もなく、
土から離れ自然の変化も感じにくい生活を長く続けると、
私たちは飽きてきます。
子どものころのようにたくさんの行事もなく、
毎日は同じことの繰り返し。
自然のリズムを無視し、
エネルギーの動きが止まったとき、
私たちは何とかしてそれを変えようと、
無意識の領域から突き動かされます。

何も起こらない、変化に乏しい日常の中で、
服を買うという行為は、手軽にエネルギーを動かす方法です。
新しい服を買ってみる、
着てみるという行為は、それだけで小さな変化です。

変化こそが生きることであるにもかかわらず、
その動きを封じ、ゆがみのない毎日の中で、
服を買うという行為が、その代替品として発見されました。

けれども、新しく服を買ったところで、
本当の変化にはなりません。
動いたエネルギーも小さすぎます。

映画を見る、音楽を聞く、本を読むなど、
ほとんどの娯楽が受け身の中で、
服を買うという行為は、少しは自発的な行為ですが、
それだけではやはり足りません。
自分から自分のエネルギーを動かし、
変化を作っていかない限り、
私たちは、ほんの些細なことで、服に飽き続けます。

自分の持っているエネルギーを何かを創造するために使っている人たちは、
飽かずに同じ服を着続けます。
種をまき、球根を植え続ける園芸家も、
まだ見たことのないものを描き続ける画家も、
一瞬の動きの中に永遠を見出すダンサーも、
食材の組み合わせの完璧な味のバランスを探すシェフも、
服をとっかえひっかえ買う必要はありません。
なぜなら彼らは自分のクリエイティビティを発揮し、
服に飽きている暇などないからです。

自分の持っているエネルギーを十分に動かし、
変化のある毎日を送ったならば、
服の飽きにいちいち心を煩わされることはありません。

服に飽きて、
新しい服をまた買って、
そしてそれにまた飽きて、
そんな服ばかりがふえていくのが心底嫌ならば、
自分で自分に対して変化を起こす必要があります。
与えられたスケジュールをこなすだけの、
動きのない日々は人を腐らせます。
変わらないということだけがクリエイティブで、
生きている証です。

それは誰かが与えてくれるものではありません。
受け身の娯楽におぼれているだけでは、
そこからは抜け出せません。
着ている服を忘れるくらい没頭できる何かを、
私たちは探さなくてはなりません。

それができた暁に、
私たちは、カシミアのセーターの肘が破れるほど着続けた自分に気づくでしょう。
ダメージ・ジーンズを買う必要もなく、
はいているうちに、自然とジーンズは擦り切れていきます。
そして、日常から「飽き」はなくなり、
渇望感は消えていきます。

服が飽きたと感じたなら、
それは本当にその服が飽きたのか、
自分が自分に飽きているのか、
自問してみてください。
そのどちらが本当の答えなのかは、
自分のハートに聞けばわかります。
そして、どうすればいいのかも、ハートは知っています。
それに従えばいいだけです。
それは案外、簡単です。

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2015年2月2日月曜日

黒以外の靴を選ぶ

黒いパンプス、
黒いバレエ・シューズ、
黒いローファー、
黒いサンダル、
黒いレースアップ・シューズ、
黒いブーツがひとそろえあれば、
それで1年中過ごせますし、
おかしく見えることはありません。
それに黒いバッグを組み合わせれば、
申し分ありません。
誰も文句は言えません。

しかし、おしゃれ上級者の人たちを観察していると、
このバランスを崩し、
特に靴の色に関して、わざとこのオーソドックスな黒を外しているということがわかります。
彼女たちは、明らかに、しかも確信を持って、
あえて黒い靴を選びません。
黒い靴に黒いバッグをあわせるという安全策はとらないで、
あえて冒険して、黒以外の靴を選びます。

はっきり言って、それが本当に合っているかどうかは疑問です。
そこには特にルールがないからです。
「絶対」はありません。
しかし、徹底的に黒を外してくるその態度はまさに、
おしゃれなのです。

では、彼女たちはなぜあえて、不調和ぎりぎりの色の靴をそこに持ってくるのか。
また、色ばかりではなく、例えばスーツにスニーカーや、
ストラップのついたサンダルをあわせたり、サボをあわせたりするのか。

その理由の1つは、ほかの人と同じスタイルを避けるため。
ここで黒い靴、黒いバッグではいかにも平凡です。
何の工夫もありません。
誰でもが考え付く、かつできるスタイル。
その凡庸性から逃れるために、黒い靴を避けます。

そしてもう1つの理由は、あえて完璧であることを避けるためです。
完璧とは、完成ということ。
進化の終わりということ。
それ以上がないということです。
人はなぜか、発展性のないものに惹かれません。
惹かれないだけではなく、退屈さえ覚えます。
当然のことながら、興味の対象からは外されます。

未来が楽しみな子どもや若者は、それだけで柔らかい存在です。
若木のようなしなやかさは、それだけで魅力です。
はかることができない伸びしろが、それがどうなるかわからないからこそ、
魅力的なのです。
一方、年を重ね、
固い殻に閉じこもり、柔らかさを失った大人に魅力を感じるのは難しくなります。
反応の遅さ、
感受性の鈍さ、
決まり切った受け答え、
それが固定してしまった人は、自然と他人を遠ざけます。
そういった大人が必ずはいている黒い靴は、
あたかもその人の句読点のように、
固い殻の入口をしっかり閉じます。

どんなに完璧な格好をしたところで、
魅力がないのであれば、意味がないのです。
私たちがおしゃれをすることで目指したいのは完璧であることではなく、
魅力があることなのです。
魅力とは、見る人の心を動かす力です。
完璧だけれども、心が一ミリも動かないスタイルをしたところで、
ちっとも面白くありません。

黒以外の色の靴は、
見る人の心を動かします。
どう解釈していいのか、迷います。
けれども、それを見ずにはいられません。
何がいいのかわからなくても、
目にはその印象が焼きつきます。
心が動き、そこにドラマが生まれます。
それが「赤い靴」であるならば、映画のテーマにさえなり得ます。

完璧だけれども、退屈なスタイルにはまっているのなら、
思い切って、黒以外の色の靴を選ぶことをお勧めします。
茶色や白など、ベーシックな色の場合はそれほど難しくはありませんが、
赤、グリーン、黄色など、
靴としてはあまり選ばれないような色になればなるほど、
難易度は上がっていきます。
まずはスニーカーやバレエ・シューズで試してみましょう。
夏のビーチ・サンダルでも構いません。
靴屋の全身が映る姿見の前で、
まずは黒い靴をはいてみて、
そのあとに、ふだんは絶対に選ばないような、
けれども、実は大好きな色の靴をあわせてみてください。
どの色の靴を選べばいいかわからない場合は、
いつもさし色として使う色を持ってくるのが一番簡単な方法です。
まずはそこから始めましょう。

魅力があるところには会話が生まれます。
そして、関係は発展します。
固い殻に閉じこもっていたのでは、
誰も声をかけません。
それを変えることができるのは自分だけです。
変えるつもりがないのなら、
それは永遠にそのままです。
靴の色を変えるというその意思表示は、
自分を変えるための第一歩になるでしょう。
いつだって物語は、
主人公が変わると決意したところから始まります。
新しい物語を始めましょう。

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