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2016年1月5日火曜日

恋愛のための衣装

珍しくも、恋愛のための衣装です。

大体において、モード系の人たちは恋愛のことなど考えていません。
デザイナーも、恋愛というシチュエーションを想像していない人が多いです。
ですから、ファッション誌、特にモード系の雑誌はこのテーマが不得意です。

正直な話、
私もどちらかといえば、このテーマは得意ではありません。
なぜなら、1990年前後の日本のファッションのピークの時代を経験しているからです。
あのころ、私たちがもっとも憧れたブランドは、
その名も「少年のように」でした。

しかし、これが間違っているのです。
恋愛したいのならば、
決して「少年のように」なってはいけないのです。

多くの男性は誰に恋するのか?
それは女性です。
(すみません、今回はLGBTの皆さんについては語りません。
決して認めていないわけではありません)

男性はデートで誰に会いに行くのか?
女性です。

男性が見たいのはどんな人なのか?
女性です。
決して、少年ではありません。

恋愛のための衣装とは、すなわち、
決して男性が着ないような衣装です。
なぜなら、それが男性の希望であり、欲しいものだからです。

さて、日本の特に冬の都会の景色は、
ダークカラーの男女で染まり、
後ろから眺めているだけでは、それが男か女かさえ、わからない状態です。
カジュアル化が進み、
どこへでもジーンズで行けるようになり、
Tシャツ、ジーンズの作業着オリジンのもの、
トレンチコート、Pコート、モッズコート、MA1ジャケットなどの軍服オリジンのアイテムを、
男女問わず着用するようになりました。
つまり、ファッションのジェンダーフリー化が進んだのです。

流行りのモードとしても、
ジェンダーフリーはよく取り上げられます。
男が女の服を着る、女が男の服を着る、
これは新しく、モードであり、ファッショナブルとされます。
しかし、恋愛において、ジェンダー、つまり男女差を無視してはいけないのです。

ジェンダーフリーのモードは、恋愛の敵です。
「少年のように」したいのなら、恋愛など、できません。

では、男性が決して着ない衣装とは何なのか。
それは色、素材、アイテム、シルエットにおいて存在します。

代表的アイテムはスカートとドレス。
このどちらも、今のところ、普通の男性は着ません。

そして色としてはピンク、柄としては花柄。
これも、多くの男性は着用しません。(もちろんたまにはいます)

そして素材では、シフォン、オーガンジー、サテン、レース、
デザインのディテールとしては、フリル、シースルー、リボン、プリーツなど。

これらを何にたとえるかと言えば、
花です。
男性は、お花のような色、質感、シルエットのスタイルに女性性を認めるのです。
それとは反対に、暗く、固く、四角いものに女性性を感じることはできません。
それがどんなにモードだとしても、
真っ黒で、固い素材で、重いシルエットのものは、
男性の手に入れたい、
触れたい、
そばにいたいものではありません。

では、女性の身体の特徴的な部分が露出したり、強調されていればいいのでしょうか。
短絡的にそのように考える人もいますが、
実は、必ずしもそうではありません。
身体を売り物にするのでなければ、
それはかえって逆効果となります。

今、説明しているのは恋愛のための衣装です。
恋愛に必要な大事な女性性の要素の1つは、恥じらいです。
恥じらいの感じられない服装は、恋愛のためのものではありません。

そしてもうひとつ、
これは多くの女性が気づかない点ですが、
恋愛対象の女性というものは、
男性にとって、攻略すべき存在です。
どういうことか。
最初からすべてを見せては意味がないのです。
やるべきことは、すべてを見せつけることではなく、
想像させることです。

「恋なんて謎があるうちよ」と、
昔の歌手が歌っていました。
それは衣装についても同じこと。
身体つき、胸の大きさ、
それらすべて謎でなければいけません。
想像させ、
どうやったら手に入るか計画させ、
ひとつひとつ手に入れさせていく。
その過程がなければ、男性はその恋愛対象の女性のことを本気で好きにはなりません。
簡単にわかってしまう女など、全く面白くはないのです。
それは安すぎるのです。
獲得しても、うれしくもないのです。
犯人を知りながら、ミステリーを読むようなものです。

お花のようであり、
謎が多く、
意味不明なディテールに満ち、
ひもとく楽しみのある衣装。

なぜこんな柔らかく、壊れそうな素材なのか、
なぜこんなにも汚れやすい色なのか、
なぜこんなところに無駄な布が使われているのか、
なぜこんなに着にくいのか、
なぜなかなか脱げないのか、
「絶対に俺には着られない」
そう男性に思わせる、そんな服装こそが、恋愛にふさわしい衣装です。

ですからこれはもはやモードではありません。
また、いつもいつもそんな格好をしているのも難しいでしょう。
それでもそこを狙うのです。
できる範囲でやるのです。

最後に1つ。
だからといって、これらが自分の好きでないものなら意味がありません。
好きでないものを無理に着たら、魅力が半減します。
また、男性の好みにすべてあわせる必要もありません。
男性の好みにすべてあわせるのなら、
あなたはその途端に獲物(ターゲット)ではなくなります。
すべて男性の好みになったのなら、あなたは攻略されたということです。
つまり、そのゲーム(獲物)は終了です。
終わらせてはいけません。

あくまで自分の意志を通して、
難攻不落なごとく、
恋愛の衣装を選びましょう。
永遠に愛されたいのなら、それが必要です。

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★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。

2015年12月31日木曜日

今年もありがとうございました。

今年もブログをお読みいただき、
どうもありがとうございました。

振り返ってみると、
このおしゃれブログのコラムも、もう既に300近くになっています。
これだけまとまったものは、
出版された書籍のたぐいでもないだろうと、
自負しております。

さて、来年からは、更新頻度を変更して、
完全に気まぐれ更新といたします。

もうかなりのところまで書いたということ、
かといって、書くことがないわけではないことなどを鑑みて、
私が一番気分よく、負担なくできるのは、
思いついたときに書くという、
ほかのブロガーさんと同じ頻度がよいという考えに至りました。

ということで、来年、完全に気まぐれ更新となりますが、
思いつきましたら、つれづれにつづっていきたいと思う所存でございます。

なお、ちょっとしたネタについては引き続き、
「麻とヴェルヴェット」に書いていきます。
何かお読みになりたい方は、そちらをどうぞごらんください。
(こちらのブログにまとめる前のたたき台の文章はそちらにちょこちょこ書いています)

では、改めまして、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

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2015年12月2日水曜日

印象コントロール

いまだに多くの人が他人の目を気にしてワードローブを構築しています。
その理由はいくつかあります。

その1つが、
「いつも同じ服を着ていると思われたくないから」という理由で、
たくさんの枚数を所持する場合です。

では、その当の本人が、
「いつも同じ服を着ている」と思われていないかといえば、
それは、はなはだ疑問です。

たくさんの人の実際のワードローブを拝見してきましたが、
この「いつも同じ服を着ていると思われたくない」という考えにとらわれている人ほど、
それとは逆の方向にワードローブの構築をしています。
つまり、意図するところとは違った結果を導くようなワードローブです。

例えば、こんな感じです。
何本ものブルー・ジーンズ。
3枚以上のトレンチ・コート。
Vネック、クルーネック、カーディガンと集めたグレーのニット。
微妙に色が違うだけの同じ形の台形スカート6枚。

「いつも同じ服を着ている」と思われたくない人たちの、
ワードローブを眺めてみればわかることですが、
そこには細部は違うけれども、
似たような形、色のものが多数そろえられています。
しかし実際のところ、
他人の目から見れば、
それはどれも同じです。

ジーンズがリーバイスだろうが、LEEだろうが、それはジーンズですし、
トレンチ・コートがバーバリーだろうが、アクアスキュータムだろうが、
それはトレンチ・コートです。
台形スカートの色や素材が少しぐらい変わっていようが、
それはいつも同じようなスカートをはいている人です。

他人の目は、細部やブランドなど、識別しやしません。
大体が、ジーンズをはいている、
スカートをはいている、
トレンチ・コートを着ていたなど。
もっと大ざっぱだと、
パンツかスカートか、それぐらいしか見分けません。
ですから、ジーンズを何本とりそろえて、毎日違うものをはこうが、
それはジーンズばかりはいている人ですし、
違うブランドのトレンチ・コートを毎日とりかえて着ていこうが、
それは毎日、トレンチ・コートの人なのです。

次の例です。
他人とは何らかの区別をつけたいと狙う人の多くが、
どこのブランドかすぐわかるようなブランド物のバッグを持っています。
すぐわかるということは、
ブランドのマークが大きくついていたり、
または、ブランド名が書いていたり、
デザインが一目でどこのものかわかるようなもの、ということです。

そういった人たちの多くが、
その人自身より、ブランド物のバッグのほうが印象深くなるという結果を招いています。

例えば有名なブランドの、シグニチャ―・モデルといわれるようなバッグを持っていたとします。
それが、その人の全体のスタイルとバランスがとれている場合は全く問題ありませんが、
そうではなく、
そのバッグだけが突出したクオリティや価格だとすると、
当然、そのバッグに人々の視線は注目します。
逆の言い方をすると、
他人は、そのバッグを見こそすれ、その人自身のことは見ません。
もし初対面の人だとしたら、その人のことではなく、バッグのことを記憶します。
今日会った何々さんはどんな人だったのかと聞かれたら、
「45万円ぐらいのシャネルのバッグを持っていた人」と答えるでしょう。

ファッション誌やネットに情報として流通している、
多くの有名なブランド物のバッグは、多くの人が記憶しています。
もしそれを全体のスタイルとは関係なく、持っていたのなら、
確かに多くの人は、そのバッグについての自分の記憶を喚起し、
頭の中で情報を処理し、新たに記憶し直すでしょう。
しかし、それだけです。
記憶に残るは、どこどこのバッグ、だけです。

このどちらの例も、
他人の目を気にして、その印象をコントロールしているようで、
それに失敗しています。

いつも同じものを着ていると思われたくなければ、
アイテム自体のデザインを変えなければなりません。
同じトレンチ・コートを何枚も用意するのではなく、
トレンチ・コート、ダッフル・コート、ピーコート、ステンカラー・コートというように、
アイテムをずらしていかないことには、
全く意味がありません。

また、どんなに高価なバッグを持っているとしても、
それが自分より目立ち、
他人の印象がそれだけになるのならば、
そのバッグを持つことの意味はありません。
高価なブランド物のバッグを持つならば、
そういえば、あのバッグはどこのものなのだろう、
ああ、あそこね、ぐらいの印象でなければなりません。
最初から、ディオールの50万のバッグの人、という印象だけを
他人に植え付け、
その人のことは忘れ去られたのでは、
全く意味がないのです。

これらすべて、自分が他人をどう見ているか考えてみればわかります。
あなたは誰かが着ていたジーンズがリーバイスなのか、LEEなのか、
気づいたでしょうか。
電車で一瞬すれ違った人がシャネルのバッグを持っていたとしたら、
それ以上、その人のことで何か覚えていることはあるでしょうか。
あるとしてもうろ覚えでしょう。
ましてや、その人自身の印象など、ほとんど記憶にないはずです。
他人とは、そういうものです。
そしてあなたも、誰かにとっての他人です。

他人、そして自分が識別するのは、
大まかな形、色、はっきりとわかる記号です。
ファッションに興味のない人だとしたら、
それは、スカートをはいていた人、パンツをはいていた人、
明るい色を着ていた、
暗い色を着ていた、
その程度です。
そして、バッグや財布に何か文字が書いてあり、
それがよく知られたものだったら読んで、情報として処理する。
それだけです。

好きなものを着つつ、
他人に与える印象をコントロールすることは可能です。
それはたくさん枚数を持っているとか、
ブランド物を持っているとかいう問題ではありません。
他人がよく見ていないところは端折り、
よく覚えているところを変えていく、
それだけでいいのです。

他人の目を気にするのなら、
もう少し賢くなりましょう。
あなたが気にしているところを、他人は見てはいません。
同様に、誰かが気にしているところを、あなたは見ていません。


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2015年11月16日月曜日

さし色をさし色としてではなく使う

何事にも基本的なルールというものはあります。
ファッションに関して言えば、それは3色ルールです。

もちろん、すべてのスタイルが3色以内で構成されているわけではありません。
特に、若さ、ポップ、エステニック、ボヘミアンなどが流行っているときは、
多色使いが多く出現します。

若さ、ポップ、エスニック、ボヘミアンとは何か。
それはセンターではないということ。
つまり、エキセントリックということです。

しかし、シック、エレガントと呼ばれるスタイルは、
一時的に世間がポップやエスニックに流れようと、
結局は全体を3色以内で構成する、3色ルールに戻ってきます。
なぜならそれが基本だからです。

スタイルを3色以内で構成するとき、
3色の中の1色は、いわゆるさし色と呼ばれ、
基本的にはその他の2色より、小さい面積を占める色を指します。
それがどれぐらいの割合かと言われれば、
1割程度といったところでしょうか。

しかし、これも確固とした規則というわけではなく、
常に例外や変則が存在します。
それは、さし色にもかかわらず、その1色がより大きな面積を占める場合です。
そういうスタイルはだめなのかと言えば、
全くそういうことはなく、
かえって、ありきたりで、見慣れたスタイルを新鮮に見せ、
大きな効果を与えます。

具体的にどういうことなのか、以下、説明します。
例えば、紺、白、赤のトリコロールのスタイルの場合、
多くは赤がさし色となります。
いまだ、どういう色がさし色なのかわからない方がいらっしゃいますが、
基本的に自分が選んださし色のスーツやコートは買いません。
紺、白、赤の場合、赤のスーツやコートは買わないということです。
さし色として赤を考えるならば、
赤でそろえるのは靴、バッグ、マフラー、帽子、手袋など、
または洋服の一部に、ごく小さい面積、赤が使われいるものなど、です。

しかし、ここで通常のさし色の赤としての使い方を変えることは可能です。
靴、バッグ、帽子などの小さな面積だった赤のニットを着てみる、
もっと大胆な色遣いにしたいのなら、
コートとして持ってきたとしても、実は問題がないのです。

例えば、真冬には多くの人が、それは男女、大人子供問わず、
ネイビーやグレーのコートを着ます。
視界の中にたくさんの人が存在せず、
真冬の美しい街角にネイビーのコートは、決して似合わないということはないのですが、
それが集団となったとき、意味が変わってきます。
街角に一人だったときには素敵に見えたネイビーのコートが、
たくさんの中に入ってしまったら、
それはただ埋もれるだけで、特別おしゃれに見えなくなります。

集団の中にたたずむモデルのファッション写真というものはありません。
それはいつでも1人か2人か、せいぜい数えられる人数でしかありません。
しかし、私たちが住む世界には、それ以上の人たちが存在します。
渋谷の駅前の交差点に立ったならば、そのことがよくわかるでしょう。

その中で、さし色としてふだん使っていた赤をコートとして持ってくることには、
非常に大きな意味があるのです。
それははいわば、集団の中のさし色です。

同じように、ヴィヴィッドなピンクでも、あざやかな黄色でも、
その色のコートやニット、ドレスを着ることは可能です。
ふだんはさし色としてしか使わなかったこれらの色の面積を大きくする。
このことは、私たちが決して1人で生きているわけではないことを思い出させます。
ファッションは、1人では存在しないのです。

シーンがあって、
登場人物がいて、
照明が決まり、
着る人の意図や目的があってこそ、
最終的なスタイルが決定されます。

そのときに、そのさし色を生かしたいと考えたならば、
場合によっては、もっと大きな面積に使っても構わないのです。
おしゃれとは、誰かの間にまぎれて埋没することではありません。
それは、着る人を際立たせ、存在意義を確立する行為です。

大勢の中の1人になりたいのか、
一人の独立した存在として、世界に存在したいのか、
それを考え、選択するとき、
さし色の使い方も変わってきます。

普通でいたい、
常識から外れたくない、
目立たないで、
みんなと同じで、
仲間はずれにならないように、
そんなふうになりたいのなら、
あえて、さし色を大きい面積に持ってくる必要はありません。
しかし、もしそうでないのなら、
この世に自分は1人だけであると、
それを示したいのなら、
集団の中のさし色として、
それはやる意義があるのです。

真冬の東京の
イルミネーションが輝き、
たくさんの人が行きかう街角で、
誰かに見つけて欲しいのなら、
さし色の面積を広くしてみてください。
そうすれば、見つかります。
はぐれることはありません。

通行人の一人ではなく、
名前のある登場人物になりたいのなら、
さし色をさし色ではなく使うことをお勧めします。
そうしたならば、誰かがあなたのことを名前で呼ぶでしょう。
誰がやっても構わない、通行人の一人では、なくなるでしょう。

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2015年11月1日日曜日

素材感を変えていく

ファッションに関連する仕事に携わっていない一般の人々は、
素材について勉強をしたことがない場合がほとんどです。
勉強したわけではないのですから、
知識はほとんどありません。
ウール、コットン、リネンなど、
名前は知っているでしょう。
しかし織りの種類によって変化する表面の感じ、
ドレープの出方、透け方、伸びる特質など、
それらについて詳しく知っている人は、多くはいないでしょう。

雑誌の写真を見たところで、
解説の文章を読んだところで、
その生地について知り得たとは言えません。
生地について知るためには、必ず経験が伴います。
実物をさわってみなければ、
それを知っているとは言えません。
同じライフスタイル、
同じ地域、
似たような仕事の中で、
生地への知識はふえてはいきません。

色についてもきっちり計画し、
シルエットも決して古びていないのに、
何となく凡庸な仕上がりのスタイルになるとき、
何が面白くないのかと言えば、
その素材感の変化のなさです。

ジーンズにボーダー柄のカットソー、
コットンギャバのトレンチコートにコンバースの平凡さ、子供っぽさは、
そのすべてが木綿から作られていることにゆえんします。

街は、安価な木綿とポリエステルの素材であふれています。
安さだけを求めていると、
手に入るのは木綿のカットソーばかりです。
安さの名のもとに、
いつの間にか素材のバラエティは失われ、
似たような素材、生地のアイテムがワードローブに並ぶようになります。
それらはどんなに素敵に組み合わせたところで、
私たちが見るような、コレクションで発表されたスタイルにはならないのです。
なぜなら、素材があまりに違うから。

木綿素材は洗濯が簡易なため、
子供服に多様され、おのずと子供服は木綿ばかりとなります。
それは構わないのです。
子供はいつでも服を汚しますから、子供服は洗濯に耐えるものでなければいけません。

活動的な若者にも、木綿だけのスタイルは似合います。
洗いざらしのTシャツによれよれのジーンズは、
若者の代表的なスタイルです。

しかし、よりおしゃれに見せるのなら、
そしてその凡庸さから抜け出したいのなら、
1つのスタイルを作るとき、素材感を変える必要が出てきます。

素材感を変えるとは、
例えばすべて木綿のアイテムだけでコーディネイトするのではなく、
木綿、ウール、シルク、皮革などというように、
素材を変えること、
もしくは、サテン、オーガンジー、ツイード、エナメルというように、
織りを変えて、生地の表面やテクスチャーが違ったものを組み合わせる、
ということです。

素材感を変えることによって、
同じ色でも陰影が出てきます。
例えば同じ黒でも、サテン、オーガンジー、レースというように
素材を変えることによって、生地に凹凸が生じ、陰影が生まれ、
それはあたかもリズムのようであり、
物語の起承転結のようであり、
一筋縄ではいかない、
複雑で、多くの意味を、そのスタイルにもたらします。
そして、その複雑さ、一度では理解できない難解さがファッションです。

確かに、木綿だけのコーディネイトはわかりやすいです。
疑問も質問も生まれません。
しかし、疑問も質問も生まれないということは、
そこには物語がない、ということ。
1度見たら終わりの、
1度聞いたら終わりの、
1度会ったら終わりの、
そのつまらなさは、
記憶には残らず、忘れ去られます。

1ページ足らずのレジュメでは、物語とは言えず、
一読すれば終わりの、そのコーディネイトを、
おしゃれとは呼ばないのです。
それはライトノベルです。
何度も読まれる名作ではありません。

凡庸を抜け、
相手に疑問を抱かせ、
質問を誘発し、
幾通りもの解釈を可能にするためにも、
1つのスタイルを完成させるときは、
素材感を変えていくことをお勧めします。

厚ぼったいだけではなく、
マットな光だけではなく、
光を入れて、
薄さを足して、
レースやツイードで凹凸をつけ、
表面を立体的にし、光を乱反射させる。

スタイルとして考えたときは、
その光はもちろんジュエリーでも構わないし、
エナメルのショートブーツでも、
帽子のサテンのリボンでも構いません。

素材がよくわからないのなら、
生地屋へ行ってみるのもいいでしょう。
一枚一枚さわってみるその経験が、
やがて素材の知識へと変わります。

できるならば、なるべく多くの素材のものを試着して、
その軽さ、重さ、照明の見え具合、さわり心地を確認することをお勧めします。

(けれども、すべての人がそれをするには難しい状況だ、ということもわかります)

安さと手軽さ、わかりやすさの罠にはまったままでは、
おしゃれには見えません。
それは努力を要するのです。
簡単だなんて、一度たりとも言ってはいません。
いつでも、
それをするかしないかです。
しないのなら、しないなり、ということです。


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2015年10月16日金曜日

肌の質感、生地の質感

若い肌には若い肌に、
大人の肌には大人の肌に似合う生地の質感というものがあります。
若い肌は新しく、
大人になるほどに、その新しさは失われていきます。
そして、その変化とともに、似合う生地の質感が変わってきます。

いつも出すたとえですが、
洗いざらしの白いシャツや、よれよれのTシャツは若い肌に似合います。
洗いざらしの白いシャツとよれよれのTシャツの特徴は、
生地の表面が洗濯によってラフになり、
光沢や滑らかさが失われている、ということです。

若い肌はそれ自体、輝き、すべすべしていますから、
皮膚の上にのる生地自体に輝きや光沢がなかったとしても、
問題ないのです。
かえって、肌自体の輝きが強調され、若さが際立ちます。

しかし、同じことを大人がやってはだめなのです。
皮膚の表面が、あたかもケント紙のように光沢があるときに似合っていたものも、
もはやケント紙などではなく、ざらざらな風合いのある皮膚になったときには、
雨風にさらされたような風合いの生地は似合いません。
それは似合わないだけではなく、
今度は皮膚の衰えを強調し、その人を疲れて、生気のないように見せます。

では、大人の肌には何が似合うのか。
いわゆる高価な生地というものがあります。
高級なカシミア、シルク、本革のスエード、凝った織りのツイード、
光沢があり滑らかなウールなどです。
それらは手にとってみるとうっとりと柔らかく、しなやかで、
英語で言うところのセンシュアル、つまり官能的な質感を持ちます。
その、官能は、まさに大人のためのものです。
20代の若い肌には、不似合いな、贅沢な素材は、
年齢を重ね、風雨にたえてきた、その肌にこそ似合います。

生地の質感というものは不思議なもので、
誰も言葉に出さなくても、
それだけではなく、よく見ることさえしなくても、
その場の雰囲気を変え、見えないエネルギーとなって、
他者へと伝播します。

オペラ座の、ヴェルヴェットの椅子に座るときの絹のドレスの感触、
冬の寒い朝、すれ違いざまに感じる、高価なカシミアのマフラーの風合い、
真夏の日差しの下、ぱりっとした真っ白なベルギーリネンのシャツが、
太陽の光を反射するときの、あのまぶしい光。

清潔なシーツの上の豪奢なレースのランジェリーやシルクのナイティ、
街灯の光にきらめくエナメルのブーツ。
高価なジュエリーが大人に似合うように、
丁寧に手をかけ作られた素材は、その人のまわりの空気を変えていきます。
それは触れなくてもわかるのです。
見えない何かがそれを伝えるのです。

年齢を重ねて、
何となく今までの服が似合わなくなったと感じるとき、
まずはその服の素材を点検してみることをお勧めします。
それは相変わらず20代の子が着るような素材ではないでしょうか。
大人の今の肌にふさわしい質感を持っているものでしょうか。
いくらサイズが合うからといって、ティーンエイジャーが着るようなものを、
そのまま着てはいないでしょうか。
チープな素材は、その人自身をチープに見せます。
似合わない質感は、 その人をいっそう老けて見せます。

例えば白シャツや白いTシャツのような、若いときにも着ていたアイテムでも、
素材のクオリティを上げれば、年齢を重ねた肌にも似合うものがあります。

私たちは、若いことをよしとする価値観の社会に生きています。
何かと言えば、若さで競争し、
若くないことが負けであるかのような、そんな印象を植え付けられます。
しかし、誰でも年をとります。
若さの競争に参加した者は、全員が負ける運命です。
「あの人は若くないから」と、年上の人を批難するその人に、
いつの日か、そのままその言葉が返ってきます。

その競争からおりるためにも、
生きてきた、その道筋を誇りに思うためにも、
若い人に似合うような素材をあえて選ぶことは、やめましょう。

その繊細で、手のかかった、豪奢なレースのドレスは、
痛みと傷で裏打ちされているのです。
そして、その痛みこそが、今の自分の輝きです。
それを隠す必要はありません。

その輝きは、すべての人を魅了します。
私はそれを知っています。
ええ、実証済みです!

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2015年10月2日金曜日

同じもので競争するべからず

経済のグローバリゼーションが全世界に広がった結果、
企業は同じものを作るのなら、
より安い人件費を求めて世界じゅうを探し続けました。
その結果、勝ち残ったのは、もっとも安くモノを作れる企業であり、
これといって、付加価値やオリジナリティを付け加えられなかった、
その「同じもの」を作った企業は淘汰されていきました。
これは1つの競争の原理です。

同じように、ファッションでも、同じものを身につけたら、
そこに競争が生まれます。

例えば、10人が集まって、
その集まった10人すべてが一粒ダイヤモンドのペンダントをしていたのなら、
そこに競争が生まれます。
その競争で勝つのは、
より大きく、より高価なものを持つ者です。

例えば、10人が集まって、
すべての人が白いTシャツにジーンズであったなら、
比べられるのは、それを着る肉体です。
より若い者、よりスタイルのいい者の価値が高まります。
その両方を兼ね備えているのなら、
その者が勝者です。
誰もはっきり言いませんが、
同じものを身につけて並んだ瞬間に、
暗黙の競争が始まります。

競争させたければ、同じものを身につけさせればいいのです。
人は黙っていても、勝手に競争し始めます。
その原理を利用したのが制服です。
同じものを身につけることにより、
人は、何かほかのもので差をつけ、勝者を目指すか、
もしくは、何かするのをあきらめ脱落します。

しかし、その同じものを脱ぎすててしまえば、
その競争が、あまりにも無意味であったことに気づきます。
高価なダイヤモンドを身につけていたからといったって、
人生がよくなるわけではありません。
若さやスタイルは一時だけのものであり、
それだけに価値を見出すのなら、
見出したその本人が、いつかそれを失う恐怖に陥ります。

競争は、はかないです。
抜けてしまえば、その不毛に気づきます。
そして、そのはかなさ、ばかばかしさ、無意味さ、不毛さから抜け出した後のほうが、
より生き生きとしている自分を作れます。

本当に強い者は、誰かと競争する必要がありません。
そこに意味を見出さなかったら、
いつまでも自由でいられます。

ファッション業界は、何度も、巧妙に、
人々をこの不毛な競争に参加させるよう仕向けてきます。
のったら最後、一人を残してすべての人が負けです。
勝つのは一番お金のある者、
もしくは、若くスタイルのいい者です。

初めから、その勝ち目のないレースに参加しなければいいのです。
いつでもよりお金持ちがあらわれます。
いつでもより若い人が生まれてきます。

ファッションとは、自由で強いものではなかったでしょうか。
競争を鼻で笑う心意気のある者たちのものではなかったでしょうか。
制服はコスプレや作業のためだけで、
多様性や個性、オリジナリティを認めるためにあるものではなかったでしょうか。

同じもので競争してはいけません。
レースに誘われても、参加してはいけません。
彼らがあなたに与えたいのは敗北感と屈辱感という、
苦い褒美です。
なぜなら、それを与えられたものは、
より渇望感を抱き、意味のない消費へとかられるからです。
苦みと甘さを巧みに操れば、
必要もなく、似合いもしないドレスを人は喜んで買うということを、
彼らは知っているからです。

重要なのはオリジナリティと多様性を認めること、
雑誌のモデルのスタイルがすべての人の理想ではないということを知ることです。

同じものを買うように誘う言葉に注意してください。
彼らの本性は、消費者心理の知識を持った、
単に売りたいだけの詐欺師です。


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