ページ

2015年7月1日水曜日

洋服の色合わせ その3

さて、色そのものの法則、
そして洋服という素材とシルエットにのったときの色について述べてきました。
次に、それが実際に人が、どこかの場で着たときの見え方についてです。

周知のとおり、色はその光によって見え方が変わってきます。
主には太陽光線、人工光線の2種類の光源があります。
また、太陽光であっても、緯度経度によって、
人工光線であれば、その光源の性質によって、色の見え方は変わってきます。

容易に想像できるのは、
ハワイで見る色の見え方と東京で見る色の見え方の違いです。
赤道に近く、太陽の光が頭上から降り注ぐハワイと、
それより北極側に位置する東京では、当然のことながら、
光の見え方は違います。
そしてその東京においてさえ、春分点、秋分点、冬至、夏至のころでは、
太陽の傾きがかわり、光線は変わります。
そのつど、同一の色でも同じようには見えません。

一方、人工光線では、
蛍光灯、LED、白熱灯によって、色の見え方が変わってきます。
太陽光下での色の見え方があくまで基準で、
それに対して人工光線がどのように見えるかをあらわす言葉が演色性です。
演色性が高いほど、太陽光に近く、低いほど、太陽光下とは違った見え方をします。
家庭やオフィスなどで多く使われる蛍光灯は、
この演色性が低く、太陽光線下で見たときと、同じ色の見え方はしません。
色のスペクトル分布がまばらなため、拾う色と拾わない色があらわれます。
蛍光灯下での食品が著しくまずそうに見えるのはそのためです。

また、余り語られてはいないことですが、
目の色によっても、色の見え方は変わります。
フィルムの現像が当たり前の時代、コダックを使うか、富士フィルムを使うかで、
上がりの写真は色が違って見えました。
あの差は日本人の目の色の見え方の差と、西洋人の目の色の見え方の差をあらわしています。
つまり、同じ人間という種族でも、人それぞれ色の見え方は違うのです。

ここからわかることは、色とは絶対的な現象ではない、ということです。
光源、目の色、太陽の緯度経度、時間、季節、環境によって、
見え方は変わる、それが色の特徴です。
色とは関係によって変わる、恣意的な現象です。

洋服の色合わせについて考えるとき、もっとも重要なことは、
関係によって変わる色の恣意性をどこまで把握するか、
どこまで自分を客観視できるか、ということです。
自分にとってふさわしい色とは、決してとある一室の、誰か1人が、
ひとつの光源において見た、
その季節、その時間の肌の色によって決められるものではありません。
それは全くもって客観的ではないのです。
ですから、私たちはその「誰か1人」よりもより大きな視点で、
客観的に色を判断する必要があります。

蛍光灯の下ではえる色、
湘南の海辺で太陽の照り返しを受けて似合う色、
都会の劇場のロビーの薄暗い照明の下、
シャンパングラス片手に誰かと談笑するときに引き立つ色、
その色がのるテクスチャーとシルエット、
そしてそれを着る人の動き、
それがしめやかなものなのか、激しいダンスのようなものなのか。
そして季節による変化、
子供の肌と大人の肌での光の反射の仕方の違い。

暖炉の前、焔に照り返されたときのニットの色合い。
オペラ座のバルコニー席で、絹ずれの音とともに翻る赤い絹のドレスの裾の色、
そこからのぞく黒いエナメルのパンプスの輝き。
鉛色の空、寒い冬の朝のオフホワイトのダッフルコートが、
ダークスーツの集団の中、光っている様子。
立春が過ぎて、太陽光線の傾きが穏やかになり、
春霞の中、明るさと暖かさをもたらす、やわらかなカシミアニットのピンク。
バラ園のバラと緑に似合う、花柄のシャツやドレス。
真夏の海辺、焼けた肌に似合う白、青、赤のトリコロール。
紅葉の森を散歩するときの、オイルドコットンのカーキなどなど。

もっとも美しく、そしておしゃれに見える洋服の色合わせは、
基本の色のルールをおさえた上で、
どれだけその人がそのシーンにふさわしいかで決まります。
それは自分の顔と洋服を鏡の前であわせただけではわかりません。

それがわかるようになるためには、
そのシーンにおいて自分がどんな見え方をしているのか、
常に気を配り、学習していくこと必要です。
海に行かなければ、海の光はわかりません。
劇場に行かなければ、劇場の照明はわかりません。
森に行かなければ、木漏れ日を知らず、
雪原に立たなければ、白銀の世界はわかりません。
すべての経験、すべての行動のたびに、光について学習し、
その都度、色の見え方を確認します。
それは訓練です。
やらないことには、上達はしません。
誰か素敵な色合いの人がいたら、どこがよいと思ったのか観察し、自分に取り入れ、
真似したくない人がいたら、自分は同じようにはしない。
引っ越したらそこの環境を観察し、
仕事場が変わったら、そこにふさわしい色合いを工夫する。
その繰り返しの結果、人はそのシーンにふさわしい洋服の色合わせをすることが可能になります。


洋服の色合わせは決して簡単なものではありません。
だけれども、簡単ではないからこそ、面白いのです。
そしてやればやるほど上達していきます。
それに取り組むか、取り組まないかは、人それぞれです。
絶対的な1つの答えはありません。
なぜなら、ファッションとは変化だからです。

変化を否定するもしないも、お気に召すまま。
それはその人の生き方です。
けれども、どちらを選ぼうとも、人生という舞台は続きます。
自分が演じられるのは、自分だけです。


☆「ファッション・レッスン」等、各種セッションのお知らせはこちらです。
★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。





















2015年6月15日月曜日

洋服の色合わせ その2 

次は色が服にのったときの影響についてです。
洋服は柔軟性があり、平面的で、表面のバリエーションに富んだ布を、
パターンどおりにカットし、立体的に縫い合わせることができ上がります。
絵画と服のもっとも大きな点はこの点です。
紙の上に水彩絵の具やグワッシュ、油絵具をのせる絵画と違い、
布はそのものに色があり、素材も木綿、化学繊維、絹、羊毛と変化に富み、
何十種類もの織り方があります。
そのため、当然のことながら、色は紙の上にのせるものとは、
全く違って見えるようになります。
紙の上の色と、布の上の色は同じではなく、
比べようのないものですから、
同一に述べることはできません。

繊維は糸から織りあげられるものですが、
先染め、または後染めという方法で染色されています。
先染めとは糸の状態のものを染めて繊維とする方法、
後染めとはでき上がった繊維を染める方法です。
(そのほかに製品になったものを染める製品染めという方法もあります)

先染めは糸がすべて染まっているので、
布の表と裏の見分けがつきにくく、
後染めはプリントなどのように、裏は染まっていないため、
表と裏が判断しやすいものです。

糸の特性、
繊維を織る方法と、その種類、
染色の方法によって、同じ色でも見え方は変わります。
例えば、同じ黒だとしても、
先染めで織られるウールサージの黒、
起毛しているヴェルヴェットの黒、
表面に光沢のあるサテンの黒、
織りが複雑なアストラカンの黒、
蝉の羽のようなオーガンジーの黒、
このどれも、同じ染料を使ったとしても、同じようには見えません。
またこれら、素材が木綿、化学繊維、ウールと変わることによっても、
違って見えます。

洋服は、着物と違い、布1枚を畳んだだけの形では構成されていません。
パターンにしたがいパーツごとに裁断され、
組み立てられることにより完成します。
組み立てられた服は、必ずシルエットを持ちます。
シルエットとは物の輪郭という意味ですが、
洋服の場合、輪郭だけではなく、立体のあり方も示します。
つまり、ダーツはどのように処理されたか、
身体にフィットするのかしないのか、
ドレープは出るのか、
プリーツは畳まれているのか、
フリルやレースなど、装飾はあるのか、
ポケットなど、あとから付け足されたものはあるのか、
ボタンやリボンはついているのか、
襟はどんな形なのか、
裾はどんな処理がされているのか、
袖口やズボンの裾は折り返すのかどうか、
などなどです。
そして、その扱いによってもまた、同じ色の見え方が変わってきます。

例えば、同じ黒で光沢のあるシルクサテンで作られたドレープと、
重厚なウールのフェルトで作られたドレープ、
オーガンジーのドレープでは、
光の反射の仕方が変わってきます。
サテンの場合は陰影が深くなり、ドレープの溝が陰としてくっきり暗くなりますが、
フェルトの場合は、布の表面に光を吸収するため、ドレープの溝ははっきりしません。
また、オーガンジーによるドレープは向こう側も透けて見えるため、軽やかな感じが残ります。

洋服のパターンは通常、シーチングと呼ばれる、
木綿のフラットな素材で1度、形を作り、ドレープやギャザー、ダーツの具合をチェックします。
シーチングが使われるのは布がフラットで、光沢もなく、
かといって光を吸収することもなく、洋服のシルエットによる陰影がチェックしやすいからです。
タックをとれば、陰の色は濃くなり、
すべてダーツで処理すれば、表面に陰影はなくなります。

シルエットを作ったときにあらわれる陰影を確認してから、
そのパターンで実際の生地を使い洋服を作ったならば、
そのときにまた陰影の具合は変わります。
そして、そのでき上がった服を人間が着て歩いたなら、
また見え方は変わってきます。
私たちはこの過程において、同じ黒でも何十種類の黒に出会うことになります。

ヴェルヴェットの黒と、オーガンジーの黒、
シルクサテンの黒と、スウェードの黒を同じ黒であると、
ファッションにおいてはみなしません。
そこにドレープがあるならば、
フリルがつくならば、
立体的にポケットを組み立てるならば、
それはすべて違う「黒」です。
だからこそ、黒1色のコーディネイトは成立するのです。
その同じ黒の中に、何十種類もの黒を見るのが、ファッションを志向する者です。
あの「黒」と、この「黒」を同じとは決して考えない。
「黒」を単純な1つの色に閉じ込めない。
すべての可能性を探求し、それを見分ける者がファッションに携わる者であり、
それをしないのならば、それはファッションとは関係のないもの。
ファッションについて考えるのならば、
その点を間違ってはいけません。

次回は、これら素材とシルエットによって変わる色が、
実際、人が着た場合にどうなるかの説明になります。

☆「ファッション・レッスン」等、各種セッションのお知らせはこちらです。
★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。








2015年6月1日月曜日

雑誌のような服ではなく、名作や古典を

色についての続きを書く予定でしたが、違うことを思いついたので、
そちらを先に書きます。

例えば春の初めに売りだされた服は、
盛夏を迎える前にセールに出され、
3割引から5割引きで売りに出されます。
年々、セールの開始時期は早まり、
今ではいつでもどこでもどこかで何かがセール品として売られています。

企画に時間をかけ、生地を織り、縫製をし、
プレスをかけ、配送され、店頭に並んでデビューしても、
わずか3カ月やそこらで値引きされてしまう。
半年たてば半額に、1年たてば8割引近くにもなる。
しかもそのものは腐ったわけでも、傷んだわけでも、
機能が落ちたり、足りなかったりしたわけでもない。
そんな商品は、この世の中が広しと言えども、
そう多くはありません。
家電やIT機器には少なからずその傾向がありますが、
それでも次の新作が発表されるときは、
何かしらの進化や付加価値が足されています。

企画について考えた、多くの人の知恵と手を結集させた、
クオリティも追及した、
それでもほんの少しの期間で価値がどんどん下がっていくもので、
ファッション以外の分野で考えられるのは雑誌です。
必ずしも雑誌の内容そのものが古くなったわけではなく、
ものとして擦り切れたり、傷んだりしているわけでないにもかかわらず、
次の発売日が来れば、価値がなくなり、古本屋で半額以下で売りだされるもの、
それが雑誌です。

それでも雑誌は、情報を提供するという性格上、
新しさが身上となりますから、
古くなったものは価値がなくなると考えられても仕方がないとは思います。
では、洋服は?バッグは?靴は?
どうなのでしょうか。

いつごろからか、
この社会では、服やバッグや靴を雑誌のように扱い始めました。
つまり、それらは情報となったのです。
情報であるならば、古さは致命傷となり、ほとんど顧みられることはなくなります。
古雑誌はリサイクルの対象であり、
古紙へのサイクルの中に組み込まれています。

しかし、私たちの本棚は、雑誌だけで占められているわけではありません。
人によって何をどれだけ持っているかは変わってくると思いますが、
古典や名作と呼ばれる本、好きで何度も読み返す本、
豪華な装丁のいつもそばに置いておきたい写真集など、
必ずしも情報として消費するわけではない、
私たちの精神と心の栄養となる本も多くあるはずです。

では洋服は?
すべてが情報として新しさだけに価値があり、
早い速度で消費されるものだけでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
世界の名だたる装飾美術館、
例えばロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムや、
パリの装飾美術館には、
何年も前に作られたものにもかかわらず、
今だに人々を魅了し、あまつさえ、欲しいと思うような、
そんな服や靴や装飾品が展示されています。
誰もが、
自分のワードローブもこのようにありたいものだと羨望と憧れで、
それらの衣装を眺めることでしょう。

ほとんどの雑誌は美術館や博物館に展示されることはありません。
希少なもの、もしくは著名な美術家が挿絵をえがいたものなどを除いては、
雑誌は永久展示品の対象外です。
なぜならほとんどの雑誌は長く展示する価値がないからです。
耐えられないのは経年による紙の劣化ではなく、
その内容の陳腐さ、貧しさからです。
そこに豊かさはないのです。

もし、自分のワードローブが博物館に飾られるような古典や名作よりも、
決して博物館になど飾られることがないとわかっている雑誌のような服たちであふれていたら、
なぜそうなのか、考えてみるとよいでしょう。
新しさに飛びついたばかりにおざなりにしたものは何なのでしょうか?
ジャンクフードが身体と心に必要な栄養を摂取するためのものではなく、
不健康と贅肉をただただもたらすもののように、
新しさにだけ価値があるその「情報」としての服がもたらしたのは、
たくさんあっても満たされない、
精神と心の栄養失調ではなかったでしょうか?

多くのものの中にまぎれてはいますが、
確かに服や靴やバッグの中には古典や名作があります。
それはまるで、分類されていない本屋の棚のように、
よく見なければ見つけられないところ、
または脚立がなければ手が届かないようなところに、
確かにあります。
私たちはもう少し、古典や名作を読む必要があるように、
ワードローブにも古典や名作が必要です。
それは10年たっても、いまだに新しく、着るたびに感動を与えてくれるのです。

10年も15年も大事に着続けて、
まだ捨てられない服が多いということは、
この名作や古典を多く集めてきたということです。
何も恥じることはありません。
今の流行作家など、10年たてば、誰も読みはしません。
名前さえも忘れ去られていることでしょう。

服を作る側のほんの一部は、
自分の作品を名作や古典にしたいと考えています。
そのつもりで服を作り続けています。
大量生産で、ひともうけしようとしている人ばかりが服を作っているわけではありません。
信念と経験と美学があって、
それを何とか形にして、
美術館に入るようなマスターピースを作ろうと努力しているデザイナーやメーカーはあります。

市場の判断が必ずしも正しいわけではありません。
ここ数年、その市場は、服を情報としてとらえ、
貧しさをそこかしこに蔓延させました。
買う側へも、作る側へも。
その市場とは、多くの人たちの消費行動です。
私たちの行動が変われば、市場も変わります。
誰もが忌み嫌う貧しさを自分にもたらしたのは、
市場を形成する私たち一人一人です。

私たちも雑誌ばかりではなく、
名作と古典、そして何度も読み返す本や、美しい写真集で構成された本棚のような、
そんな美しい、そして教養のようなワードローブを構築してみたらいかがでしょうか。

今の日本では、それが可能です。
私たちはかつてないほどに、
美術館の所蔵品が手に入れられるような時代に生きています。
これがいつまで続くかわかりません。
できるときにできることを、
死ぬ時に後悔しないように、
すべての貧しさから脱するために。
それが今の私たちの責務であると、
私は考えます。


☆「ファッション・レッスン」等、各種セッションのお知らせはこちらです。
★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。

2015年5月15日金曜日

洋服の色合わせ その1


そぎ落とされたシンプルなデザインと、
モノトーンで構成されたスタイルの時代を経て、
複雑な構造とシルエット、
そしてカラフルな色合いのスタイルの時代になりました。
そうなると、モノトーンの時代には考える必要がなかった、
洋服の色合わせについて、
どうしたらいいのかという問題が出てきます。

洋服の色合わせを考えるとき、考慮すべき点は以下のものです。
・洋服そのものの色
・素材
・デザイン、シルエット
・シーン(照明と背景、周囲の人々)

まずは色そのものから説明します。
洋服の色合わせを考えるとき、基本となるのは、
明度と彩度をあわせる、
または明度および彩度のグラデーションです。

これを理解するためにはまず
明度、彩度、そして色そのものである純色について理解しておく必要があります。

明度とは、理想的な黒から理想的な白までのあいだの明るさの度合いです。
英語ではValueとなり、表記は通常Vです。
彩度とは、色見のない無彩色から、
あざやかさがもっとも高い純色までのあざやかさの度合いです。
英語ではChromaとなり、通常、表記はCです。

純色とは、赤、青、黄の色の三原色のほか、
使われる色相環によってその区分けは異なりますが、
そのほか主にオレンジ、紫、緑を足したもので、
その色の混ざりけのない、もっともあざやかな純度の高い色になります。

洋服の色合わせの基本、明度と彩度をあわせるですが、
日本の日本色配色体系は、これをわかりやすく12のトーンに分け、
名前をつけて分類しています。
その分類は以下のとおりです。
ペール、
ライト、
ブライト、
ソフト、
ストロング、
ヴィヴィッド、
ダル、
ディープ、
ダーク、
ライトグレイッシュ、
グレイッシュ、
ダークグレイッシュです。
(参照サイトはこちら
これら、彩度と明度のある範囲を囲ったトーン内で、
すべてのコーディネイトをあわせる、
というのが1つの色合わせの方法です。

つぎはグラデーションです。
これは明度のグラデーション、彩度のグラデーション、
両方、あり得ます。
わかりやすいのは白から黒のグラデーションに代表される明度のグラデーションです。
これは明度の低いものから高いものですが、
簡単に使われるのはこちらのほうです。
彩度に差をつけていっても、おかしいことはありませんが、
絵具ではないので、徐々に彩度を高くしていくという方法を、
洋服で表現していくのは、物理的に難しくなります。

また洋服にはさし色といって、
まとめたトーンやグラデーションとは違う色を投入する手法がよく使われます。
さし色は通常、全体の面積の中で使われる面積が少なく、
ポイントとなる色のことで、
その選び方に、特にこれといったルールはありません。
同じトーンの中でどれか1色をさし色として使っても構いませんし、
例えば、グレイッシュにヴィヴィッドを1色投入するなどの使い方も可能です。

色には赤と緑、黄色と青のような補色関係がありますが、
さし色を補色にしなければならないということもありません。
ただしもちろん、補色をさし色として持ってくれば、
お互いが引き立て合って、よりいきいきとしたスタイルになることは確かです。

さし色の使い方としては、
全体の中に1点投入する、
または点在させてリレーションを形成するの
2つの方法があります。
全体の中に1点投入した場合は、その1点のものを特に目立たせる効果が、
また、点在させリレーションを形成すれば、おしゃれな感じが自然と表現できます。
それはどちらを選んでも構いません。

またこれらの色合わせのほか、
洋服の世界でよく使われる色遣いに白から黒のモノトーンによるスタイルがあります。
白から黒は流行に左右されにくく、
常に使われる色遣いです。

白から黒のモノトーンには、色のあざやかさである彩度がありません。
白から黒は色ではなく、光の明るさだからです。
ですから、白から黒のモノトーンはどんな色とも合わせることが可能です。
それは白や黒のスクリーンの前にどんな色を持ってきても映えるのと同じことで、
どんな色をそこに持ってきても許されます。
同様に、白から黒の中間であるグレーも、
どんな色でも合わせられます。
これらは光と影の陰影なので、色見がないからです。
ただし、どれもその条件を満たすのは、
純粋で色見のない、混じりけのない白から黒であり、
少しでも黄色が混ざっていたり、青が混ざっていたりすると、
合う色は変わってきます。
クリーム色もグレイッシュなベージュも、純粋なモノトーンではありません。

さて、服の色は画用紙の上の絵具と同じではありません。
その色はどれも布地の上にのっかります。
素材の特質によって、純粋な色はまた違ったように見えてきます。
それが絵画や印刷物とは違う、洋服の面白さでもあるのです。

長くなりましたので、
後半部はその2に続きます。

参考文献:「COLOR BOOK  based on the Munsell system」 Bunka Collage of Fashion

写真:オスワルトの色相環。向かい合う色が補色関係になる。

☆「ファッション・レッスン」等、各種セッションのお知らせはこちらです。
★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。





2015年5月1日金曜日

デザイン、生地、色

服がデザインされて製品化されるまでには、
段階があります。
その段階で最も重要なのは、
生地の選定、
色だし、
デザインの決定です。

これはブランドによって違うのですが、
デザインを決定する際、
先行して生地がもう既に存在している場合と、
デザインにあわせて生地を探し選定、または一から作る場合とがあります。
生地の色については、そのデザインにあわせて色だし(染め)をする場合と、
これもやはりもう既にある色の中から選択する場合とがあります。
どちらにも共通して言えるのは、
生地とデザインは切っても切れない関係であるということです。

生地とデザインがなぜ切っても切れない関係なのかということは、
生地の性質によって、
そのデザインが成り立つかどうかが決定してしまうからです。

例えば、デザインを先に考えて、
美しいドレープを出したい場合は、
生地にこしがなく、かつ薄手のジョーゼットやクレープを選ばなくてはなりませんし、
逆に構築的、立体的な形を出したければ、
厚手のしっかりしたフェルトやメルトンを使わなければなりません。

デザインではなく、使いたい生地が先にあった場合には、
その生地に合ったデザインを考えます。
シルクシフォンなら、ふんわりして、軽やかなギャザーやドレープが可能になりますし、
しっかりしたツイードなら、ジャケットやタイトスカートに向いています。

デザイナーは、その生地の特性、質感、適するデザインについて熟知している必要があります。
そうでなければ、服をデザインして製品にすることはできません。

生地とデザインの関係が決定したら、
つぎは色の選定です。
時代の色というものも必ずありますし、
また、デザインの上で必要な色というものもあります。
若さを表現したいのなら、ヴィヴィッドでポップな色合いに、
シックでエレガントなら、モノトーンやグレイッシュトーンに、
エスニックやトライブと言われる民族衣装をオリジナルとしたものなら、
その地域や文化圏の色が選ばれます。

このように1つのデザインされた服を完成させるためには、
この3つの要素はそれぞれに必要で、
交換不能な関係を持ちます。

交換不能な理由は、そこには意図があるからです。
若さなのか、
シックなのか、
エレガントなのか、
フェミニティなのか、
ジェンダーフリーなのか、
時代の最先端なのか、
リバイバルなのか、
意図があるからこそ、それらが選択されます。
もしここに意図がないのなら、それらはどうでもいいことです。
その時点で、それはデザインではありません。

デザインにはそれぞれ意図があり、
製品としての服になります。
その結果、意図の数だけ服のバラエティが豊かになります。
ファッションとはまさにそのことです。
多様性であり、豊かさです。
これがデザインする側、
ファッションを志向する側の姿勢です。

しかし同時に、それとは逆の姿勢の勢力も存在するのが現代です。
多様性や豊かさを否定し、
大量生産大量消費を礼賛します。
なぜなら、単純な同じものを大量に作ったほうが、
莫大な利益が得られるからです。
彼らにとって重要なのは、デザイナーの意図などではなく、
利益の追求です。

そのためにはデザインを極力シンプルに、
生地はなるべく同じものに、
色も決められた、ほんの少しの色の中から選びます。
デザインの意図などなく、
志向しているのは効率、安価、インスタントであることです。

2000年以降、
アパレル業界は、この2つの潮流に分かれました。
残念ながら、「莫大な利益」を得た側の影響力は強いです。
大量の宣伝、プロモーション、啓蒙活動が功を奏して、
多くの人が、ファッションの多様性、豊かさを選ばないままやってきました。
疑いもなく。

その結果、得られたものは、
感覚の鈍感さです。
明らかに、私たちの感覚は鈍感になっています。
芸術家、建築家、インテリアデザイナー、庭園デザイナーなど、
色と質感とデザインを扱う職業や、その勉強をしている人たちでない限り、
色の違いや、質感の違いに対する感度が鈍く、
差が認識できなくなっています。

何千種類ものウールの手触りを、
当たる光によって変化するヴェルヴェットの陰影の多彩さを、
デザイン、生地、色、すべてがマッチしたときの完璧な服の存在を、
そんなものすべてを振り切って、
簡単で、わかりやすく、インスタントなものを求めた結果、
私たちは豊かさを失いました。
多くの、傷んではないけれども、もう着られない服の山の真ん中で、
感じるのは、たくさんあることの豊かさではなく、
貧しさです。
それは、やせた感覚の貧しさです。

さて、貧しい人生など、ここらでやめてみてはいかがでしょうか?
かけたお金は少なくはありません。
金銭的に見てみたら、決して貧しくはありません。
貧しかったのは、その感性です。

何千種類ものウールの手触りを、さわっただけで瞬時に判断できるように、
バラとフランネル草とスイレンの葉の緑の違いのようなツイードの色彩が、
朝と昼と夕方では違うのだとわかるように、
袖を通した瞬間に、その服をデザインしたデザイナーと気持ちが通じるように、
失った15年の感性を、今から取り戻せばいいのです。

それは簡単なことではありません。
それは一朝一夕ではできません。
感性を眠らせている間にすぎていった時間を取り戻すのですから、
あるいは同じだけの時間がかかるかもしれません。
それでも、その価値はあるのです。
なぜなら、それこそが豊かであるということだから。
そして、
皮革とサテンとヴェルヴェットとウールギャバジンの黒の見え方の違いがわかる、
豊かな感性の持ち主こそが、おしゃれな人であるからです。


☆「ファッション・レッスン」等、各種セッションのお知らせはこちらです。
★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。











2015年4月15日水曜日

服が人を美しく見せるわけではない

ある服を着ることで、
その人が美しくなるのかという疑問が私たちの心に湧きあがる前に、
それは、美しくなるに決まっているのだと、
いつでも、どこでも、繰り返し言われたり、
書かれたりしてきました。
しかし、それは本当なのでしょうか。

ここでマルグリット・デュラスの「愛人(L'AMANT)」の一節を引用します。
「女を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではない、
念入りなお化粧でもなく、高価な香油でもなく、
珍しく高価な装飾具でもないということを、
わたしは知っている。」
このように小説家は断言します。

私たちは何となく、
その美しい服さえ着れば美しくなれる、
その高価な装身具をつけさえすれば美しくなれると、
信じ込まされてきました。
そう信じ込まされてきたからこそ、
今まで多くの投資を、
忘れてしまいたいほどの過ちを、
クローゼットの中の隅っこに隠したまま、
長い年月を過ごしてきました。
けれども、服は私たちの下僕であるべきで、
主人であってはいけません。
下僕のいかんにより左右される美しさを、
私たちは本当に欲していたのでしょうか。

その言葉は誰によって発せられたのか、
私たちは注意して調べる必要があります。

ティム・ガンという大学教授が、
女性に必要な10のアイテムを推進しています。
白いシャツ、タイトスカートなどを、
女性は持っているべきであると言います。
しかし、ティム・ガンとはどこで何を教えている教授なのでしょうか?
彼は、FIT、つまりニューヨークのファッション工科大学の教授です。
アートの学校ではありません。
工科大学、つまりテクノロジーのための学校です。
彼は、量産が前提の服作りの学校の先生なのです。
ですから、すべての人に同じものを持ってほしい、
そう考えているのです。
なぜなら、量産こそが彼らのねらいだからです。
これがもし、パリのオートクチュールの服作りのための学校の教授だったら、
このようなことは言わないでしょう。

確かに美しい服は存在します。
アートとクラフトが融合し、
100年、博物館に飾ってもおかしくないデザインがなされた美しい服は、
多くはありませんが、
確かに存在します。

一方、ひとの美しさとは、
着るものに左右されるものではありません。
肉体の美しさもさることながら、
しぐさの美しさ、
心の美しさ、
言葉の美しさなど、
どんなものを着ていても、十分に察知できるものです。
もしそれが着るものによって左右されるのならば、
その美しさは空虚で、偽りのものでしょう。

服とひとは対等ではありません。
あくまでひとが主で、服が従です。
私たちは、決して服のいいなりになど、なってはいけないのです。

どんなに完成度の高い美しい服を着たところで、
ひととしての美しさがないのならば、
それはショーウィンドウのマネキンと同じです。
もしそのひとの着ている服だけが印象に残ったのなら、
そのひとはたいして美しくはないのです。

ひとと服の主従関係をはっきりさせ、
服に従う人生から、早く抜け出さなければなりません。
その服を着れば美しくなりますよとささやいたそのつぶやきが、
誰から発せられたのか、
見破らなくてはなりません。
そして、まず最初に私たちが本当にすべきなのは服への投資などではなく、
ひととしての美しさを養成したり、
栄養を与えるための投資です。
それが完成の域に近づいたとき、
ほんとうに美しい服は、
あなたの忠実な下僕となって、
あなたの美しさをより輝かせるでしょう。

その時期がいつ訪れるのかは、
ひとによってさまざまです。
本物のデザイナーは、
そのときに貢献する服を作っています。
私たちはそれを選べばいいだけです。

運動したり、
読書したり、
楽器の練習をしたり、
料理をしたり、
どんなひとともコミュニケーションできたり、
ひとつの技術を磨いたり、
美にふれること、
それらが私たちを美しくさせます。
美しい人にこそ、美しい服がふさわしいのです。

小説家が知っていたように、
女性を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではないと、
多くの人がうすうす気づいていたことでしょう。
今はそれを確信に変えて、
やるべきことの順番の見直しをしてください。
そのときまで美しい服たちは、
あなたのことを待ち続けています。

文中引用:「愛人」 マルグリット・デュラス 清水徹訳
河出書房新社 1985年

☆「ファッション・レッスン」等、各種セッションのお知らせはこちらです。
★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。









2015年4月1日水曜日

ファッションとは変化

ファッションとは変化です。
変化が常態です。
ですから、変化が止まったら、
それはすなわちファッションの死を意味します。

人もそれぞれ変化していきます。
人の変化は成長と呼ばれます。
年齢が若ければ若いほど、
1年の成長の幅は大きくなります。
成長の速度と距離は、人によってそれぞれです。
同じように、何歳まで成長し続けるのかも、
人によって違います。
多くの人は、年齢が上がれば上がるほど、
その成長の幅を縮めていきます。

時代に即して変化していくファッション、
年齢とともに変化していく人、
その交点にその人のワードローブがあります。
成長の幅が大きい人の場合は、
ワードローブに流行が大きく反映され、
成長が止まったならば、
ワードローブが流行に影響される割合はぐっと少なくなります。

シルエット、色、素材にも流行があり、
それは少しずつ変化していきます。
プルミエール・ヴィジョンのブックを見るまでもなく、
60年代の色と、2000年代の色と、2010年代の色は違います。
同じように人も、年齢とともに好きなシルエット、色、素材が変わっていきます。
そして、そこへ変化が遅い、物質としてのでき上がった服が入り込みます。

物質としての服の変化は、いわゆる経年による変化、
また洗濯による劣化、着用による摩耗や着用回数は、
もともとの素材の性質によって異なります。
当たり前のことですが、
着用回数が多いものは、劣化のスピードも早くなります。

活発な子どもは成長の度合いが大きく、
身体の変化が激しいので、その成長にふさわしく、
古いワードローブから脱皮していきます。

次にやってくる若い時代は、
精神的な成長の度合いが著しく、
それに伴いワードローブを変化させます。
誰でも二十歳のころの服を、
30歳になったとき、同じように着たい気持ちにはなりません。

若い時代が過ぎ、大人として成熟していく段階で、
成長の速度の個人差が大きくなります。
そこで成長をとめた人のワードローブは、
進化することを停止させます。
もはや服を着ることは生活に必要な行為であるだけであって、
ファッションと無縁になっていきます。
それは別に悪いことではありません。
生き方の1つです。
その生き方を誰かに否定される筋合いはありません。

しかし、もしファッションを目指すなら、
変化を受け入れなければなりません。
変化を拒むもの、恐れるものは、
ファッショナブルにはなれません。

時代が変わっていくならば、
それにあわせて進化していく。
若い肉体にもう戻れないとしても、
鍛えて維持をする。
常に精神を若々しく保ち、
過去に執着しない。
これらは、身体も心も、
そして物質的にも身軽でなければできないことです。
重くなりすぎたら、素早く変化に対応することは、不可能です。

物質的な服の劣化を見極めながら、
あくまで身軽に、
一度決めたことを葬り去る勇気と、
新しいことにチャレンジする進取の精神とを持ち続けるならば、
いつでもファッショナブルでいることは可能です。
それは実際の肉体年齢の問題ではありません。

ファッションとは変化です。
ですから、ファッショナブルな人とは、
変化に対応し、
進化し続ける人です。
他人によるレッテル貼りや、意味づけ、決めつけなどの、
多くの制止を振り払って、
走り続ける人こそが、
永遠におしゃれな人です。


☆「ファッション・レッスン」等、各種セッションのお知らせはこちらです。
★ こちらのブログ及びメールにて個人的なファッションのご相談、ご質問は受け付けておりません。